2011年02月01日

革命アレルギー

おそらくエジプト情勢について。
大衆は民主主義であろうが独裁であろうが経済が順調で生活に困らなければ何でもいいというのが実情だろうな。独裁=悪と単純に等式を立てるのはインテリ層だけ。というか、つるし上げ民主主義なんて独裁とどっこいじゃないか。
Twitter / すなふきん:(sunafukin99)



これに対する応答。
@sunafukin99 つるし上げ民主主義のほうが「流動性」があるだけまだマシでは。独裁だといちいち100万人集まったり何百人も殺されなきゃ変われないんだから。
Twitter / ナょωレよ″丶)ょぅすレナ(rna)


ちょっと感動した。
けど、よく考えたら日本はどっちなんだ、と考えて微妙な気分になる。

たしかに「何百人も殺され」たりはしていないし、それなりの「流動性」もないわけじゃない。でもなんかそれって、「100万人集ま」ること自体を阻止する仕組みだけが発達しているというのに過ぎないんじゃないかとも思う。

「開発独裁」って言葉があり、日本の体制もそれに準じるものでしかないのではないか、みたいなことが言われたりして、僕もそれにけっこう説得力を感じたりする。

革命が必要な社会は不幸かもしれないけど、その逆、革命が起こらないから幸福だ、というのは言えないと思うのだが、しかしなんか、今回≪革命アレルギー≫みたいな傾向が感じられる言説がちらほら見受けられる。これがいわゆる反動的な論者に限らない、ということが、なんだか僕は面白くない。
posted by 甲虫1 at 2011年02月01日 23:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2011年01月18日

「女子供」と「オタク」

tikani_nemuru_M 表現規制 この発言そんなにダメか? 「女子供」が双方に都合よく客体化されてきたことは事実だし、客体化された「女子供」こそが急所を握っているというのもおかしくないと思うのだが。批判者は事実と価値を混同してない? 2011/01/18
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Twitter / kamayan1192: 「表現規制」関連の政治的綱引きって、「女子供」という ... Twitter / kamayan1192: 「表現規制」関連の政治的綱引きって、「女子供」という ...を巡って。

この件では「はてサ」の中でも意見が割れているようだが……。

ただ、みんな忘れてるんじゃないかと思うのは、(「批判者」である)hokusyu氏は「オタク」である、ということ。
俺たちは俺たちの名で戦おうぜ、ということなんじゃないのかな?
posted by 甲虫1 at 2011年01月18日 22:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

遊びでズレてるわけじゃない

その気持ちは分からないでもないのだけど、あなたのコメントはいつも、なんというか、ズレてるなぁ…。 @toled
Twitter / 金明秀 Myungsoo KIM(han_org)
まえまえから思っているのだが、WEB世間の人たちは、常野氏が「(元)登校拒否」であることをどう思っているのだろうか。

ひじょうにもやもやする。
なんというか、登校拒否なめんな、と言いたい。
posted by 甲虫1 at 2011年01月18日 21:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2011年01月17日

王を嘲う子供

永井均『倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦』への≪疑念≫。
道徳的であるべき理由などない、のであれば、欲望に従うべき理由もないのである。だから、「いかに生きるべきか」ということが哲学の問題になる。
アインジヒトへの挑戦 - MOJIMOJI's BLOG アインジヒトへの挑戦 - MOJIMOJI's BLOG

永井均は前から気になってる。

外山恒一が「世の中をここまで悪くしたのは全共闘世代ではなく新人類世代だ」(Twitter / 外山恒一(toyamakoichi)9:57 AM Jan 5th )と言っている。「世代」というものは社会の変化の産物に過ぎず、それが主体的に世の中を良くしたり悪くしたりするわけではないだろう、という問題点はあるものの、大まかに言えば妥当な見方だと思う。

つまり問題は70〜80年代に確立した≪倫理的な倫理批判≫とでも言うべきものだ。
いわば≪出家≫的態度。社会の≪外≫に出ることを、あまりに安易に美化する態度。

そして最近僕がわかってきたのは、一見社会的に思える≪利益集団≫を重視する立場が、これらとそう変わらない思想に根ざしているかもしれない、ということだ。
posted by 甲虫1 at 2011年01月17日 22:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2011年01月10日

小説の「価値」について

『KAGEROU』はちゃんと売れてるのだろうか?

コメントやブコメの多くが誤解しているが、ここで中森明夫は、この本の内容を著者である水嶋ヒロ(齋藤智裕)の境遇と重ね合わせることによってのみ感動してるわけではない。

中森氏の言っていることを僕なりに言い換えれば、この作品は≪おとな≫が書いた小説であり、だからこそ感動的なのだということなのである。

タレント出身の著者の稚拙な小説が高く評価されることに小説家やその志望者が怒る、というのは理解できるのだが、しかし、その怒りは誰に向けられるべきものだろうか。
小説の技巧に習熟することは、良い小説を書くための手段であって、それ自身は目的ではない。でも、それは、何者でもない若者を≪小説≫という共同体に帰属する権利があると錯覚させる。もちろん、日本の文化環境がそういうディシプリンに冷淡すぎるという現実はあるので、その感覚が常に有害であるとは言わない。しかし、それは小説作品が感動的であるか否かとは関係がないし、もっと言えば傑作であるか否かとさえ関係がないはずなのだ。




――なぜこんなことを書くのかといえば、僕は今日、ブックオフに行ったからである。
僕は古本屋に行くと、本の≪価値≫を適切に判断しなければならない、という観念に囚われてしまう。
(そうすると、自分が欲しい/読みたい本より、≪掘り出し物≫――今では手に入りにくいとか、需要があったり名著であったりするわりに安価だとか――を探そうとしてしまう。そういう基準だと自分がその価値を知っている既読書ばかりを選んでしまうことになる。つまり、なかなか買えない……)。
読んだことのない本、とりわけ小説の≪価値≫とは何か、と考えていたら『KAGEROU』のことを思い出したのである。

ちなみにブックオフは、普通の古書店とは値付けの感覚がちょっと違うように思う。かなりあからさまに本の状態より人気(需要)で値付けしているように感じる。もっとも僕が古本屋によく行っていたのはインターネット以前なので、今ではいろいろ違っているかもしれない。


KAGEROU
KAGEROU
posted with amazlet at 11.01.10
齋藤 智裕
ポプラ社 (2010-12-15)
売り上げランキング: 30
posted by 甲虫1 at 2011年01月10日 19:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2011年01月09日

「性表現規制」と「いじめ」

Togetter - 「furukatsu氏が表現規制に対する報復として性暴力を用いることを示唆」 Togetter - 「furukatsu氏が表現規制に対する報復として性暴力を用いることを示唆」」を巡って。

これってどうなんだろう。規制反対派から「規制派」よばわりされる反規制派批判者の考えてることを端的に書くとこうなるって感じかな? 少なくとも僕も問題をこういう風に理解している。

もちろん現実には、明文化されないためにどんどん過剰になるであろう業界の自主規制や、そういう体質を利用/助長することによって負託された以上の権力を振るう警察/行政のありかた、といった問題があるし、そもそも男性中心主義による純潔思想に基づいている規制を肯定できるわけがない、というのは前提。

ところで、僕がこの記事を読んで連想したのはいじめのこと。
いじめも、ここで語られる「少女を性的な対象として扱う」ことと同じで、それが(「殺人」がそうであるようには)「社会的に容認されない行為」であることが自明だということに必ずしもなっていないという現実がある。
ではそれに対処するのに何を持ってくるのか。それは「法」なのか、それとも他の何かなのか、そしてどちらがより「まし」なのか。
posted by 甲虫1 at 2011年01月09日 22:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2011年01月03日

「私」のゆくえ(70's〜0's)

文脈として、「バブル崩壊」と絡めて考えるのか、「冷戦崩壊」と絡めて考えるのか、ストーリーとしてどちらが面白いか考えているところです。 @han_org それが文脈や時代によって、「私らしさ」という一貫したキャラクターを持たなければならないという同調圧力に転じるということか。
Twitter / はいおくたん:(highok)

「一昔前(高度経済成長以後バブルあたりまで)は「私らしさ」のような表現が主流だったのが、0年代は「同一性」を強調する物言いが増加している印象がある。[以下略=引用者]」(Twitter / はいおくたん)という話なのだが……。

70年代から現在までを、同じひとつの原理が世界全体を覆っていく一つながりの過程だと考えることができると思う。初期には人間を解放する革命であった原理がそのまま抑圧に転化するだなんてことはまったくよくありがちなことで、どっかに転換点を想定しなければならないということではないのでは。
「バブル崩壊」や「冷戦崩壊」は、その原理への敵対者が消滅していくイベントみたいなもんのひとつに過ぎないんじゃなかろうか。

posted by 甲虫1 at 2011年01月03日 22:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |
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