2010年11月18日

ミイラ採りに行こう


ブクマコメントを見ると、みなさんは万能のレッテルとしての「ネオリベ」の乱用のほうに呆れているようなのだが、僕としては、上野千鶴子が自分はネオリベとは無関係だと信じているらしいことのほうが驚き。

もちろん、このツイートを見ただけではほんとのところはわからないわけだが……。

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posted by 甲虫1 at 2010年11月18日 17:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年11月17日

「権利」の位置づけ

これ興味深い(コメント欄および検証記事「相手を不快にする権利? - おこじょの日記」も)。

表現の自由云々でいつも議論が紛糾するポイントはここなんだ。

この記事で言えば、相手が不快を感じたとしてもやむをえない、ではなく、相手を不快にする≪権利≫がある、という言い方ができるかどうか、ということ。

なんか、目的を持たない≪ルールそのもの≫とか≪自由そのもの≫みたいなものを想定すると泥沼にはまるような気がする。これって、陥りがちな罠のひとつだと思う。人間と人間でないものにあまり区別をつけず両者を相互変換できるかのように見ることに≪自由≫を見出す、という発想があり、おそらくそれはこの40年くらい(もっとか?)のトレンドなのだが、しかしそれって、われわれ東アジア人にとってあまりにもなじみがありすぎるというか、安易に流れやすい道であるような気が、僕はずっとしている。
posted by 甲虫1 at 2010年11月17日 22:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年11月15日

理想と実在


50年代当時の人が理想と考えたソ連社会が、こんにち一部で理想とされてる新自由主義的(?)な社会とほとんど変わらないものだった、という話。

貧しいけれどあまり働かなくともすむ社会と豊かだけれど強制的に働かされる社会との選択だったら前者を取りたい人はけっこう居そうだと思う。冷戦末期になっても社会主義国を肯定しようとした――そこまでいかなくとも、それをこの世の地獄として否定し去ることをしなかった――人は、そういう人たちだったような気がする。でも現実の社会主義国がそういうものではないというのは、それなりの見識があればわかるはずのことではなかったろうか。

しかし、今はそういった、冷戦末期の≪社会主義者≫の≪間違い≫を、社会主義に否定的な人が信じてしまっており、しかもその人たちの理想は終戦直後のソ連崇拝と内容的に変わらないものなのである。
これは歴史の皮肉だろうか。もちろんいちばんありそうなのは、ソ連崇拝者と新自由主義者が、≪同じ≫人たち(実際に同一人物でなくとも、トライブというか、人間のタイプとしてかぶっていたりとか)だということだろう。
posted by 甲虫1 at 2010年11月15日 22:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年11月10日

「生活左翼」みたいなものがあったんじゃないかと思いますが。

うーむ、むかし『広告批評』という雑誌がありましてね――みたいなこと言わなきゃならんのですかね?

たとえば『広告批評』でずっとコラム書いてた橋本治が言ってることってもっぱら、この記事で取り上げられてる上野千鶴子が言ってる(らしい)ような、仕事中心で家族をかえりみないような男は孤独死しちまうぞ(ザマアミロ)、みたいな話だけなんであって。(浅田彰もどっちかといえばこっち系で、だから僕の浅田氏に対する評価は微妙なものにならざるをえない)。

これって、消費(女・子供)の側から生産(男)を批判する、というもので、景気が良いときにしか機能しない。
バブルがもう少し続けばよかった、そうしたら「日本的なもの」がもっと徹底的に破壊されていたであろうから、と言った人がいて、僕はそれに強く同感するし、リフレ派は嫌いだけどリフレは必要だなと思うのもそのせいなんだけど、しかしそれは、そっち方面にしか≪弾≫がない、という現実にひきずられてるのかもしれないとも思う。
posted by 甲虫1 at 2010年11月10日 20:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年11月09日

「戦闘美少女」というコラージュ

斎藤環の『戦闘美少女の精神分析』とかあのへんの本は、対談とか雑誌の企画で出たアイデアをむりやり一冊の本にまとめたものなのであって、それ自体の整合性とかはかなりボロボロなのである。

僕は基本的にそういう再編集には否定的だが、でもたとえば、長期連載のマンガなんかでは登場人物のキャラがいつの間にやら変化しているようなことはよくあることなのであって、それを意識せずに作品を読むのは不可能だと思うのだがどうだろうか。

いや、『戦闘美少女の精神分析』がデタラメだと怒っている人をみかけたので。


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posted by 甲虫1 at 2010年11月09日 08:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年11月03日

自らの問題を自ら

[daisensei] これか。/「自らの問題を自ら思考すること。それが哲学であるとすれば、永井均の営みこそまさしくその名に値する」と書かれると、「しかし哲学とは、本当にそういうものなのだろうか?」と続けてみたくなるよね。 / 書評『〈… http://htn.to/ayCi4k
Twitter / さかい: 3:09 PM Nov 2nd
まあ「哲学」のことは僕にとってはどうでもいいけど、ヤバいとすれば、これが倫理の問題だとされる場合。

いや、もうそうなってるのでは……。
posted by 甲虫1 at 2010年11月03日 16:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年11月01日

固有性に対する怒り

たしかに。 RT @yhlee: この発想はなかったな。 RT @kusare_gedou: 虐め経験者は多分「民族差別が絡む虐めだけを取り上げたり特別視しやがって、俺が受けた虐めは同でも良いと思ってんだろクソが」と大.. http://togetter.com/li/63464
Twitter / 9:41 AM Oct 31st 金明秀 Myungsoo KIM:(han_org)
いや、「この発想はなかった」って……。
差別自体に疑問を持たないとかそういう人以外がこだわるのはそこぐらいしかないと思う。

しかもこれって単に感情や心理の問題ではない。

このような怒りを代表する赤木智弘はたまたま「ソーシャル」な問題を再び喚起させたとして評価されているわけだけど、一般にはこの種の発想って、逆に「実存主義」だの「リベラリズム」だの「個人主義」だのの名において現れることが多いはず。

いずれにせよ昨今の問題じゃない。
posted by 甲虫1 at 2010年11月01日 22:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年10月31日

道徳の外にあるもの


いじめや差別、サービス残業などは、歪んだ共同体的道徳がそれを支えている、みたいな考えかたがあると思う。
しかし、これらのTogetterのコメントやブクマを見ていて気づいたのだが、それらの擁護は単に「共同体」や「道徳」の観点からされてるわけでもない。もうひとつ「秩序」の維持という意識があるのだ。

これはけっこう厄介な話だ。共同体の利益や道徳的正義を真面目に追求するのなら、その見解は変化することがありうる。
しかし目的が「秩序」であるならばどうか。目的を問われはしないが、しかし既に存在する以上多くの人がそれに依存しているような秩序の維持を願うというのは、いくらでも無責任かつ利己的、また空想的でありうるのではないか。

生存と正義とか、自由と共同体の対立とかのようなかっこいい話より、もっとしょうもない現実がここにあるように思った。
posted by 甲虫1 at 2010年10月31日 23:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年10月15日

全共闘と浜崎あゆみの関係について

日大全共闘―『僕らの7日間戦争』(特に原作)―浜崎あゆみ、という不思議なとりあわせ。
興味深い。
ところでこれは有名なブログ(または筆者)なの?
posted by 甲虫1 at 2010年10月15日 08:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年10月09日

秘密投票の謎

不思議なことだが、「投票の秘密」というものは、権利でなく義務かもしれないらしい。

どうも秘密投票というのは、まだきちんと理論付けられていないようである。
(世の中けっこうそういうものがある。俗情を盾にする素人を批判する「教科書読め」という決まり文句が、僕はときどきすごく嫌になるが、それはこのせいだ)。

あと、ここでは「一般に、秘密投票は、なぜか、思想家の関心にならない。だれも、その理論的根拠を徹底して考えた人がいない。」と言われているが、柄谷行人はそれについてちょっと気にしているようで、エッセイなどで何度か触れている。でも僕はいま柄谷流の「自由主義」に懐疑的になっているのでちょっと考えてしまうところ。(追記:もうひとつ、秘密投票を批判した知識人の一人にサルトルが挙げられているが、これは近代のたてまえがそのまま権力と結びついているフランスという国の特殊性を考えるべきだろう。これはフーコーの受容されかたなんかを見るとかなり慎重になったほうがよいことだと思う)。

紹介されている本については、「「投票方法と個人主義―フランス革命にみる「投票の秘密」の本質」を含むブログ - はてなキーワード」からたどれるいくつかのブログも参考になる。




posted by 甲虫1 at 2010年10月09日 21:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年10月07日

エピクロスたち

前回の記事の後半だが、なんであんなややこしいことになるのかといえば、≪ポルノは公の場で見せられるべきではない≫というそれ自体は正しい方向性と、≪わかってくれないならせめて放っといてくれ≫というオタク自身の方向性が奇妙な一致を示してしまい、オタク側からすれば≪わざわざ隠れているのに目障りだと言われる。これはわれわれに死ねということか?≫ということになってしまっているのだと思う。

でも本来≪隠れる≫なんてできると思ってるのがおかしいと思うのだが。もしかしたら「自由主義」の理念が悪意ある視線を妨げることになっている、というような理屈なのだろうか。

追記
もちろん、ここで「オタク」は代表例にすぎない。
「サバイバーの誇り」に固執してややこしいことになっているタイプのマイノリティはけっこう多い(もちろん他人事ではない)。
そして、それが弱者に対する攻撃になってしまっているときは、何を言われようと批判しなければならないだろう(これも他人事ではない)。【10/8 08:10ごろ】
posted by 甲虫1 at 2010年10月07日 23:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年10月03日

被差別と「社会的集団」

問題を対人関係的にしか捕らえられないというのは、なんか僕自身の感じ方や言動にも思い当たる(または僕が他者からそう見られている)節もあってちょっと微妙な気分になるのだがそれはともかく、こういう話をするについてはもっといろいろな前提があるような気がする。

たとえば、ここで言われているそういう「人たち」のひとつの例が「オタク」という存在である。

オタクカルチャーの中心にあるマンガ・アニメ・ゲームは、いずれもストーリーのあるフィクションであるということはもっと注目されてよいのではないだろうか。
ある種のフィクションにおいては、登場人物が主体的に倫理的な決断をなすことが期待される。そのなかでは暴力や殺人は現実におけるほどの罪とはみなされない場合がある。というか、現実の法だって、たとえば人を殺すことがイコール「殺人」であるとは限らない。しかも物語で描かれているのは極限状態なので、そこでは必ずしも「普通」の正しさは問われないのだ。
(なので、フィクションに対する社会的非難は暴力より差別のほうに強く向けられる。前者のほうが悪影響あるに決まってるだろ、って言ってた作家さんもいたけどね――もちろんそれは前者がこれからも規制されないこと、またポルノ一般が意図的な性差別であったりしないということに対する確信があるから言えることなので、差別を肯定しているわけではないはずだが)。
そういう発想をわりとそのまま現実にも適用している人がけっこういそうな気がする。これはいわゆる「フィクションと現実の区別がついてない」というのとはちょっと違うと思うのだが、小さくないことだと思う。

もうひとつ、これは前から言ってるけど、オタクっていうのは、一方では学校的な「よい子」カルチャーなのであって、「不良」と「左翼」(セックスと政治)に対するライバル意識というか反感を強く持っている。でももう一方では「大人たち」に対する反抗も手放さない(これは「成熟」に対する反発でもある。成熟という観点から見れば、不良生徒や左翼学生は一種の通過儀礼としてある種の大人に評価される余地を残している)。そのような存在がよってたつ論理は、「なにも悪いことしてない」とか「(明示的な)ルールを破っていない」というものでしかありえない。このように考える人は、社会に明示的な目的がある(ありうる)ということに対して否定的にならざるを得ないだろう。
(こうしてみるとオタクって新自由主義の申し子みたいに見えるな……)。

これらのことが何を示すと僕が考えているのかといえば、ここにあるのはひとつの「文化」だということだ。
冒頭に掲げたリンク先では、「社会的集団への侵害は見えない人たち」のサンプルのひとつが(このまとめには入っていないものの)大学教員である発言者のお一人が接する大学生だったりするので(大学生って、一定の限度があるとはいえ全国の様々な階層から集まって来るわけで、いわば無作為抽出みたいに思っていいだろう)、それがあたかも日本社会の自然な傾向であるかのように考えられているように見える。
また、ここの主要な発言者のかたがたは社会学者なので、人々の無意識の傾向性を指摘するのが仕事なのでしょうがないということはあろう。

しかし、社会的集団に目的が存在すること自体が悪だと考える人が「社会的集団への侵害」に配慮しないのは単に当たり前ではないか。それはむしろ倫理的なことだと解されているのかもしれない。そして、現実には多くの人はそれを実生活で身につけてきたのだとしても、文化的なものに触れたときにもそれが大きく否定されない、それどころかそれを肯定してくれる論理が存在する、ということを見なければいけないのではないのか。
――というのが、文芸批評で育ってきた(もちろんこれは比較の問題であって、実際にはそんなに詳しいわけではないが)僕のこのまとめに対する感想である。

××

あと、前編(というか「全編」か)たるTogetter - 「過激ポルノ表現「自重論」は“人権侵害”?」 Togetter - 「過激ポルノ表現「自重論」は“人権侵害”?」にも一応ざっと眼を通したので、ちょっと言及しておく。
たしかにどうしょうもない人はいるものだが、そこには上に書いたような理由で触れない。

単純に言って≪ポルノを公の場では見せなくてもいいんじゃない?≫、というのが、たとえば≪在日は見た目は日本人と変わらないのだから通名を使ったほうが差別されることが少ないんじゃない?≫というようなものと等価であるような観点があるということを認めうるかどうか、みたいなことが問題になっているような気がする。もちろん両者がまったく≪同じ≫であるわけがないが、後者を批判しているのに前者を肯定するのは差別を≪客観的≫に判定しようとしているとか被差別者特権を独占しようとしているということだ、みたいに怒ってる人がブクマを見るといる。これをどう考えたらよいか。

でも、マイノリティ運動はふつう、マイノリティが無視されることに怒る。それは社会という全体を想定し、その中にマイノリティも正当な場所を与えられることをよいことだと思うことだ。でも、同じマイノリティ意識を持っている人でも、それが気に食わないタイプがいる。

上に書いたように、もし社会的集団を悪としてそれを避けるのがオタクならば、そもそもそういう人にとってどういう社会が理想なのか。たまたまそうであったことがそのまま肯定されるような世界がそれなのか。だとしたら、それをシャッフルして再編しようとするものは、その方向性はどうあれ、それ自体が悪だということにならないか。
posted by 甲虫1 at 2010年10月03日 22:27 | Comment(0) | TrackBack(1) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年09月20日

殿様のはなし

本筋とは違うかもしれないけど。

僕にはずっと、この件――というか、広く「リフレ派」と「左翼」の関係――って、≪階級≫とか≪身分≫の上下みたいな話に思える。もちろんこれは比喩ですけど。

つまり、なにか必要な政策があって、そのために大同団結しなければならない、ということがあったときに、普通なら「大同」のために「小異」を隠したりあえて無視したりということをお互いにしなきゃならんわけですよね。ところが、そんなことおかまいなしに、○○っていいよな、とか××はありえない、とか平然と口にしてとがめられない殿様と、それに抗議すると団結を乱す気かとかお前には目的に対する真剣さが足りないとか言われる足軽という差別が発生するわけです。

そこでなんで怒らんのよ、というだけの話なんじゃないの? と思ってるんですけど違うんですかね? サヨクがうるさいから今は黙っとこう、という程度でいいと思うんですよ。別に本心でどう思ってようが関係ない。なんでそれぐらいやってくれないんですか、ということなんでしょう、本筋は。
逆はさんざん言われるんですけどね。サヨクが原則論を振りかざして分裂を煽ったので勝てる戦いに負けた、とか。

これは大事なことだと思うけど、民主主義って、それ自体が目的なわけです。それを棚上げにしたらもっとうまくいく場合があるって、特に専門家の人は思っちゃうのかもしれないけど、それやったらおしまいなんだ、というのが、一般にファシズム云々という言葉で表現されていることだと思います。
posted by 甲虫1 at 2010年09月20日 09:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年09月19日

差別者は差別しても良いのか、という言説(追記のほうが長いよ……)

ここでhokusyu氏が言ってるようなことを柄谷行人はずっと昔から言っている(そして、たとえば東浩紀のような人はそこから離脱してきたのだ)。
つまりこれは20何年か前から積み残されている問題だということ。ただ、切実さはずっと強くなってきているような気はする。

【長すぎる追記】

肝心なことを書くのを忘れていた。
柄谷行人って「アメリカ帰り」の思想家なんだよね。でも渡米したのはデビュー後で、よくある留学してナショナリストになって帰ってきた、という感じにはならなかったし、なにか新しいものを「輸入」する立場でもなかった。
彼は日本の事物ではなく「日本」というあり方そのものをコンテンツにしようとした(東氏のオタク関係の仕事は、それを意識しているはずなんだけど……)。
これは、それが流通するはずの「世界」の普遍性を信じていた、ということだと思う。
これって世代的なものも大きいと僕は思っていて、たとえば角川春樹や内田裕也は柄谷とほぼ同年だ、と言えば何ごとかが理解されるものと思う(宮崎駿や富野由悠季も同世代)。
こういう柄谷氏のあり方が、多くの戦後生まれの後進を苛立たせたことは想像に難くない(上に挙げた同世代人に対する評判をイメージせよ)。
昨今の「はてサ」を巡るいざこざの多くは、この延長線上にあると思う。
posted by 甲虫1 at 2010年09月19日 14:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年09月15日

他者の思考形態を語る

全体の趣旨はともかく後半は……(いや、よく考えたらそれもな……)。

でも考えてみれば、僕だってひきこもりやニートの友人とかいないわけで(それ以外でも友人はいないが……)、実態はよくわからないのだが。
posted by 甲虫1 at 2010年09月15日 08:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年09月14日

または「こっちみんな」系

なんというか僕は、≪ボヤキ系≫とでもいうべきタイプの人の文章を読むのが大変に嫌いなのである。

そういう人の言うことは、なんか≪深い≫ような雰囲気を漂わせているので、ついつい一生懸命読んでしまう。だが、その≪深さ≫とは、要は生身の筆者が文章とは別のところに存在しているという感覚であるわけである。しかし、結局のところ、それを作り出しているのはいま僕が読みつつある文章そのものでしかないのである。

つまり、なにか≪語る根拠≫のようなものが、言説の背後にあるように装いながら――というか、実際にあるのかもしれないけどそれを明らかにはせず・または妙に自分を卑下したりして、しかし自分の言説の真正さに対する強い確信は保ちながら自論を展開したり他者を攻撃したりはする、という態度をとるようなタイプの人がけっこういるのである。
これは非常にイライラする。

ん?――これ、僕のことか?

あー、いやいや、でもこういうのがある種のメタ政治的な態度としてあり、しかもそういう人が他人の政治性をあげつらって批判してたりするのを見ると、腹が立って夜も眠れなくなったりして、非常に健康に良くないのだった。以上。
posted by 甲虫1 at 2010年09月14日 22:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年09月12日

こういうふうに考えている

死刑についてはこういうふうに考えている。

人には自分を殺す意志と能力があるものを殺す権利がある、というのが原則だとすると、死刑囚はわれわれすべてを殺してもいいことになってしまう。
さすがにそれは僕はイヤなので、死刑は廃止すべきだと思っている。

しかしこの論理はそのまま、死刑を廃止すべきではない理由にもなりうる。
人には全世界を敵に回して死んでいく自由もまたあるのではないか、と。



――もちろん、ある種の共同体主義(敵/味方論?)を採ればこのようなことはまったく問題ではなくなる。
そしてたぶん、それがわれわれの時代の思想なのだ。
posted by 甲虫1 at 2010年09月12日 06:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年09月11日

二つの信仰

東浩紀がネットで(多くはしょうもない)騒動を起こすたびに、ポストモダン(ポモ)がどうのこうのと揶揄されるのだが、そういうとき、オリジナルの「ポモ」論者(彼らがそう呼ばれることが適切か否かは別として)は、決して東氏のようには軽率でないはずだという判断を、多くの人はしていると思うし、僕もそうしている。

しかし、ここでは、ドゥルーズやデリダといった「本物」たちの哲学の中にある、精神分析のいわば「乱用」が指摘されている。だがそれは単なる間違いやインチキというより、それ自体がひとつの魅力として存在する。
とはいえ、ドゥルーズやデリダの言説は(というか「哲学」は)、世界の分析−分節−認識であるよりも、世界を「信じる」ための根拠をこそ(それが「幻想」と呼ばれるものであったとしても)探求するもの(つまりはじめから「美的」なもの)なのかも知れないのだが。
2010-09-06 - 偽日記@はてな
僕はドゥルーズやデリダの著作を直接読めてはいないのだが、しかしここで「美的」とか「幻想」とか「信仰」などと呼ばれるもののほうに、僕もまた魅かれる。



ここで取り上げられている樫村晴香を含む、ある世代以降の現代日本の知性の中に、僕はある種のリアリズム指向とでもいうべきものをどうしても感じてしまう。それは客観的な≪現実≫がハンパな理念を排除してしまうことを強く望む感性だ。
欧米の思想家について、キリスト教の影響ということがよく言われるが、こういう感性の根底に、実はわれわれの隠れた「信仰」があらわになっているのではないかとも思える。
posted by 甲虫1 at 2010年09月11日 10:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年09月01日

メタ世代の憂鬱

あのー、ここで批判されている人たちの顔ぶれが、前に書いた「闘わないことが闘い」の登場人物とほぼ重なってるんですけどー(まあ僕の書いた内容のダメさはともかく)。

要は、サヨクみたいに道徳的に責めるだけでは現実の悲惨は無くならない、と考えることが倫理的なありかただとされた時代があって、その風に吹かれて育った人がこういうことを言う、ということなんでしょうね。

でもここは重要な焦点になるはずのところ。単に悪いことが無い(少ない)ということと、あえて悪を為さないということとはどちらが大事なのか。そしてそれをするのは、または判断するのは≪誰≫なのか。
posted by 甲虫1 at 2010年09月01日 22:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年08月29日

ハトとネズミと英米と

直接関係はないが。

ここでも出てくる、ネズミやハトを狭い空間に多数で閉じ込めると殺し合いを始める、という話。おそらく内藤氏のすべての本に出てくるんだと思うけど(僕が読んだことがある内藤氏の本は『いじめの社会理論』と『学校が自由になる日』だけだけど)、なにか出典が示されたことがあるのだろうか。いじめの要因のひとつが生物学的なものかもしれないというのは重要なことのはずなのに、たとえ話みたいにとりあげていていいのか。

もちろんその要因がなんであれ「いじめは悪い」というのは大原則なのだが、いったい誰がなぜそれを大原則とするのか(しなければならないか)という点は常に問題なのだ。もちろん変なことを言うとイデオロギーだとか言われるから警戒しなくちゃいけないのはわかるけど、イデオロギーって、中立・客観を装ったもの(というか、提唱者本人でさえそう思っちゃってるもの)という定義もあるんだよね……。


あともうひとつ似たようなこと。日本以外にいじめの多い国は英・米と北欧で、それらの国では日本と同様に集団生活になじむことそれ自体が教育の目的とされている、というのも内藤氏の本で読んだと思うのだが、これは出典が示されてたかな?(単に憶えていない。すいません)。
内藤氏の議論は中間集団の全否定みたいに見えるんだけど(厳密には違う、というか多元帰属が目指されているんだろうけど……)、それがどのような社会で有効な議論なのか、ということを考える上でこの辺は重要だと思う。


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posted by 甲虫1 at 2010年08月29日 14:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |
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