コメント欄にあるとおり、以下の本文中の「座談会参加者が語るような“多様な生き方があっていいじゃないか”という意味の言葉」なるものは、僕の誤読の産物であり、実在しません。
曖昧な根拠で批判的なことを書いてしまったことをお詫びいたします。
「そのうち」の件。
あまり遅くなるとややこしいので、あえて読み返さないまま書いてみます。
これの何が問題かって、けっきょく、「不登校論」と「ひきこもり論」の対立の意味がわかってない、あるいは無視しているってことに尽きるんだろうと思う。
「不登校論」は自由を重視する“俺らのことは放っといてくれよ派”。
それに対して「ひきこもり論」は“でもなんらかの手当ては必要だよ派”。
これはさいきん話題のリベラル対ソーシャルっていうのと似た対立。
座談会参加者が語るような“多様な生き方があっていいじゃないか”という意味の言葉は、結局のところ弱者を二級市民として切り捨てる口実として機能した――というのが、ここ数年、不安定就労などについて論じられる中で常識となりつつあるのに、彼らがそれ以前の認識に戻ってしまっているということが問題なのだ。
ひきこもりを中流家庭の病理として捉えようとする見方がこの座談会のなかには散見されると思うのだが、今いわれているマトモな貧困対策の多くが、なるだけ多くの人を「中流」への入り口に立たせることを目標にしていることを、座談会参加者はどう考えるのだろうか。
あと、個別の問題。
内藤朝雄氏のいう“すべての学校を自動車学校のようにしてしまえばいい”という話ですけど……。
内藤氏が問題にしてるのは、いじめと管理教育(=教師による暴力)ですよね。これ、ひきこもりや不登校には、あまり有効ではないと思う。
ひきこもりや不登校における「学校的なもの」は、あくまで人格の中に埋め込まれているものであって、具体的な制度とはかならずしも関係がない。塾や大学といった、学校システムとしては周縁的というか、多くの人が「解放」されるようなところでひっかかってしまうのがひきこもり(少なくともその一部)なのだから。これは井出草平氏も強調するところなのにもかかわらず、なぜ学校制度をいじることに意味があると考えるのか。
これはもう政治とか宗教のような、どのように生きるべきかとか何が正義なのか、という問題なのだと思う(もちろん、これは政治運動や宗教団体のみを意味しない)。斎藤環氏が精神分析を強調するのもそのような意味だろう。
そこはもう避けては通れない道なのだということを前提にして考えるよりしょうがないんじゃないかという気がする。
参照
- 『ひきこもりの社会学』 座談会について 1 - Freezing Point
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20071117 - 『ひきこもりの社会学』 座談会について 2 - Freezing Point
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20071119 - よくよく読んだらあまりにぬるい甘々な話で泣けた - こころ世代のテンノーゲーム
http://d.hatena.ne.jp/umeten/20071117/p1




