2007年12月02日

中流で何が悪い――社会・教育・自由

追記:
コメント欄にあるとおり、以下の本文中の「座談会参加者が語るような“多様な生き方があっていいじゃないか”という意味の言葉」なるものは、僕の誤読の産物であり、実在しません。
曖昧な根拠で批判的なことを書いてしまったことをお詫びいたします。
(07.12/16)


「そのうち」の件。
あまり遅くなるとややこしいので、あえて読み返さないまま書いてみます。
これの何が問題かって、けっきょく、「不登校論」と「ひきこもり論」の対立の意味がわかってない、あるいは無視しているってことに尽きるんだろうと思う。

「不登校論」は自由を重視する“俺らのことは放っといてくれよ派”。
それに対して「ひきこもり論」は“でもなんらかの手当ては必要だよ派”。
これはさいきん話題のリベラル対ソーシャルっていうのと似た対立。

座談会参加者が語るような“多様な生き方があっていいじゃないか”という意味の言葉は、結局のところ弱者を二級市民として切り捨てる口実として機能した――というのが、ここ数年、不安定就労などについて論じられる中で常識となりつつあるのに、彼らがそれ以前の認識に戻ってしまっているということが問題なのだ。

ひきこもりを中流家庭の病理として捉えようとする見方がこの座談会のなかには散見されると思うのだが、今いわれているマトモな貧困対策の多くが、なるだけ多くの人を「中流」への入り口に立たせることを目標にしていることを、座談会参加者はどう考えるのだろうか。

あと、個別の問題。
内藤朝雄氏のいう“すべての学校を自動車学校のようにしてしまえばいい”という話ですけど……。
内藤氏が問題にしてるのは、いじめと管理教育(=教師による暴力)ですよね。これ、ひきこもりや不登校には、あまり有効ではないと思う。
ひきこもりや不登校における「学校的なもの」は、あくまで人格の中に埋め込まれているものであって、具体的な制度とはかならずしも関係がない。塾や大学といった、学校システムとしては周縁的というか、多くの人が「解放」されるようなところでひっかかってしまうのがひきこもり(少なくともその一部)なのだから。これは井出草平氏も強調するところなのにもかかわらず、なぜ学校制度をいじることに意味があると考えるのか。

これはもう政治とか宗教のような、どのように生きるべきかとか何が正義なのか、という問題なのだと思う(もちろん、これは政治運動や宗教団体のみを意味しない)。斎藤環氏が精神分析を強調するのもそのような意味だろう。
そこはもう避けては通れない道なのだということを前提にして考えるよりしょうがないんじゃないかという気がする。
【ぜんぜんまとまってませんが……。また続きを書くかも】


参照
タグ:ひきこもり
posted by 甲虫1 at 2007年12月02日 22:09 | Comment(3) | TrackBack(2) | うわさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2007年11月17日

メモ


昨晩、ざっと目を通した。
今日になったらはてブでいろいろ批判されていて笑った。
僕としてもちょっと言いたいことがあるけど、またそのうち。
posted by 甲虫1 at 2007年11月17日 22:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | うわさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2007年10月08日

ペンという剣

内藤朝雄氏のブログ閉鎖に至る、内藤氏と杉田俊介氏とのもめごとのdemian氏によるまとめ。
僕の認識もおおむねこんなかんじである。

でも一つ付け加えるとすれば、内藤・杉田両氏のあいだには、一種のカルチャーギャップがあるということもできると思う。

杉田氏の問題の連載のタイトルが「いきすべき批評」であることから明らかな通り、杉田氏はあくまで文芸批評――すなわち"文学"の意識で文章を書いているのだが、もう一方の内藤氏、および上山和樹氏(上記のdemian氏の記事では触れられていないが、上山氏も杉田氏に"批判予告"されているhttp://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20070723/p1)は、"文学"にはからきし弱いのである。これは、両氏の資質の問題が大きいと思う。

文学作品とはメッセージであることを封じられた言葉である――というと聞こえはいいが、要するにそれは何を言ってもいっさい本気にされないということである――のであり、その条件を乗り越えようとあれこれ努力することが作品の完成度を高めることになる。杉田氏の言葉はその延長線上にあり、そのつもりで読めばけっこう良いものなのだろう。好意的批評(http://d.hatena.ne.jp/gordias/20071007/1191683887)もある。この批評の冒頭で書き手(font-da氏)が「杉田俊介が、」と呼び捨てで書き始めているのが、これが"文学"というジャンルの意識で書かれたものであることを示していると思う。

ところが、内藤氏や上山氏はその逆の、すべてのことがメッセージとして機能してしまう世界に暮らしているのである(こっちの説明は、疲れたので略す。両氏のブログなどを読めばなんとなく感じ取れるだろう)。

しかし問題は、杉田氏がそのことをちゃんとわかっていながら一連の文章を書いているのではないか、と思えてしまうことだ。そうでないならハッピーなことだが、もしそうなら、たしかに「それ怖いです」というしかなかろう。

★関連
http://coleopteran.seesaa.net/article/55188748.html
posted by 甲虫1 at 2007年10月08日 19:17 | Comment(2) | TrackBack(1) | うわさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2007年09月13日

内藤朝雄氏のブログが閉鎖。

以下のやりとりにおいて、杉田俊介氏に対する侮辱や罵倒とうけとれる表現をしてしまったことを、杉田氏に深くお詫びいたします。




http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20070825

http://www.allneetnippon.jp/2007/08/3_10.html

http://www.allneetnippon.jp/2007/08/4_10.html

http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20050923

http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20070723








このブログは閉鎖いたします。

内藤朝雄 - 2007-09-10 おわびとブログ閉鎖のおしらせ
http://d.hatena.ne.jp/suuuuhi/20070910

内藤朝雄氏のブログが閉鎖。荻上チキ氏のコメントあり(09/11 21:46)。今後の告知等は『いじめと現代社会BLOG』(http://d.hatena.ne.jp/izime/)の方でされることになるらしい(同ブログのタイトルには「内藤朝雄HP」の文字が見える。いつからあるのかは不明)。
posted by 甲虫1 at 2007年09月13日 21:24 | Comment(0) | TrackBack(1) | うわさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2007年09月02日

そりゃパンクじゃない。

でも、「お前がいきがって警察を怒らせて、もし俺たちが捕まったらどうするんだ、迷惑な奴だ、空気読め!」って声高に叫ぶのは、ちょっと耐え難いくらいかっこ悪い。そりゃパンクじゃない。

その台詞を吐いた瞬間、彼らがやっていることは反逆反抗ではなく、世間のお目こぼしをあてにした、ただの甘えになってしまう。

オタクはねえ、そういうことやるんだわ。外から圧力が掛かったときに、反発するんじゃなく、内向きに攻撃を始めることがあるの。それが俺は嫌いでね。その点、DQNや不良なら、(実際はどうかはともかく美学として)官憲に反発するほうに行くよね。そういう気概が、オタクにはどうも欠けてないか。

NaokiTakahashiの日記 - 2007-09-02■美意識の問題
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20070902#p1

これはたぶんシロクマの屑籠(汎適所属) - 「想像力の欠如した」路上パフォーマーが、秋葉原の歩行者天国を危機に晒すへのアンサーだと思う。

しかし「外から圧力が掛かったときに、反発するんじゃなく、内向きに攻撃を始める」というのは、そもそもオタクの起源にかかわることなので、そう改まるものじゃあないだろう。68年的な「反抗」から、78年(?)的な、《個人の自由》を楯に取った「甘え」への転換が、オタクカルチャーにはもともとある。

ただ、オタク第二世代以降、オタクカルチャーは「反抗」のアイテムにもなったりする(ただ、このとき敵は「大人たち」から「パンピー」だの「モテ」だの「サブカル」だのに変化している)ので、高橋氏のような意見も出てくるのだろう(もちろん僕はそっち寄りの人でありたいと思ってる人です)。
posted by 甲虫1 at 2007年09月02日 23:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | うわさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2007年08月04日

「国家を超える」?


  • 「同性婚や事実婚を制度的に求める人たちは結局国家というものを前提としてしまっている」「制度上の社会的なマイノリティとしてマジョリティに対抗しているように見えても国家の正統性を再生産してしまっている」という批判がラディカルな立場からなされる。
    • マイノリティの社会的承認が重要な政治的課題であるとして、国家からの承認が国家を前提としているという批判スタイルははたして可能なのか/妥当なのか。
      [中略-引用者(甲虫ブログ)]

    • 現実に公的であることの定義権を(ある程度)独占している国家をあたかも存在しないかのように脱構築を図るのは、むしろ国家の剥き出しの暴力装置としてのあり方を黙認してしまうことになるのでは。

Kawakita on the Web - 萱野稔人氏×北田暁大氏トークセッション「権力と正義」 参加
http://d.hatena.ne.jp/kwkt/20070727/p1

激しく同意。
これがわかっていない人が意外に多い――というか、わかっていればできないはずのことをやってしまっている人が多すぎると思う。
タグ:国家 権力 政治
posted by 甲虫1 at 2007年08月04日 23:03 | Comment(2) | TrackBack(1) | うわさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2007年03月21日

某氏の件。



ウチにも関係あるので一応。

IPアドレス公開がどれぐらい大変なことなのかは僕にはわからないが、しかしねえ……。

さらに「この馬鹿を増長させる者も同罪とみなします」(稲葉氏)ってのは……。


追記:関連記事。恥をさらすようでもあるけれども。
http://coleopteran.seesaa.net/article/33542524.html
http://coleopteran.seesaa.net/article/33845776.html
タグ:ブログ
posted by 甲虫1 at 2007年03月21日 16:00 | Comment(0) | TrackBack(1) | うわさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2007年02月12日

ニセ科学批判批判

「トンデモ」批判的なコミュニケーションが(局所的ではあれ)一種流行になって、「トンデモ」なものを批判なり嘲笑することが自己目的化する(「繋がりの社会性」?)ような場合がある気がして、私はそれはとても不毛だと思う。
on the ground 正しさは社会を良くするか
http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-320.html


パオロ・マッツァリーノ『つっこみ力』の書評――なのだが、むしろ本筋は
最近「ニセ科学」の話題などが盛り上がったが、それを横目で見ながら何か私はスッキリしなかった。
というところにあるようだ。
これは、僕がまん延する「ニセ科学批判」の後半で上手く書ききれなかったことと同じではないか。

ただし僕は、きはむ氏ほど倫理的(内省的)ではない。ニセ科学批判の自己目的化がまずいのは、批判者やその同調者の「優越感情」が醜いからというより、ネットでの議論が内藤朝雄のいういじめにおける「いま・ここ」の論理(性・宗教・メディア・倫理 : 悲しいお知らせ。http://may13th.exblog.jp/4279438に適切な要約がある)に引きずられてしまいがちであり、ニセ科学批判もその例外ではないからだ。



posted by 甲虫1 at 2007年02月12日 23:20 | Comment(3) | TrackBack(4) | うわさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2007年01月06日

本を書くということ

Living, Loving, Thinking - 1987年?
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070105/1167974950#c1167979538

コメント欄。

僕もこんなブログをやっているぐらいだから、文筆家になりたい、本を出してみたいなどと夢想したことはあるが、そのたびに考えたのが読者の反応のことだ。

本というのは書店で誰でも手に入る。つまり誰に読まれるかわからない。そしてその中にはさまざまな人がいるはずだ。自分の意見に共感してくれる人ばかりではないだろう。それどころかこちらが意図しない理解をして傷ついたり腹を立てたりする人がいないとは限らない。そしてそれらの人の幾人かが、自ら死を選んだり、著者である僕に「復讐」をこころみたりするかもしれない――などと考えてしまうのだ。

そんな事態は、僕には耐えられそうにない。

だから僕は本を書く人たちを尊敬していた。彼らはそのような事態を想定したうえで、「あえて」本を書く…つまり極端な話、人を殺したり殺されたりすることを覚悟し、それに耐えることを選んだ強い人間なのだ、と思ったのだ。

ところが、である。

インターネットの時代になり、だれでも公共の場で文章を書くことができるようになった。活字で活動している人たちが、自分の著書について語られている掲示板やブログに「光臨」することもたびたび見られるようになった。
それらの中には、ほほえましい交流や有意義な意見の交換もないではない。しかし……。

僕はなにか勘違いしていたのだろうか?
書物という「戦場」が、かえって人を傷つきやすく、傲慢にするのか?
それとも、「著者」という身分は、僕が考えていたよりずっと居心地がよくて、なにかと「守られている」立場なのだろうか。
posted by 甲虫1 at 2007年01月06日 19:59 | Comment(5) | TrackBack(0) | うわさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2006年12月29日

まん延する「ニセ科学批判」


菊池誠氏のNHK出演(テキスト起こしはうしとみしよぞ - 視点・論点「まん延するニセ科学」 。)を テンプレネタにしたもののひとつ(そのほかのバリエーションはこちらにまとめられている)。

違和感ありまくりで困る。でもそれは、これがテンプレネタだからではないと思う。
作者のApeman氏自身が言っているように、「疑似科学と偽史(ないし歴史修正主義)との類似性は表面的なものではなく、かなり本質的なもの」だ。しかしだからこそ、ほとんど「ニセ科学」を「ニセ歴史学」(歴史修正主義のこと)に入れ替えただけのようなこのネタが、「ニセ科学」を批判することの困難を浮き彫りにしているのだと思う。

元ネタの菊池氏は、ニセ科学の特徴を「断言」に見る。
科学的に誠実であれば、科学者は「歯切れの悪い答え」しか口にできない、ところが「ニセ科学」は、きわめて簡単にすべてを断言してしまう、云々。

Apeman氏も、それをほとんどそのまま踏襲する。「このように、「ニセ歴史学」は実に小気味よく、物事に白黒を付けてくれます」と。

でもそれはおかしい、というか、ある意味正反対なのではないかと僕は思う。
歴史修正主義、たとえば《南京大虐殺はまぼろしだ》という主張は、まさにこの《断言できない》という《学問的誠実さ》の裏をかくことで勢力を伸ばしてきたという側面があるからだ。

歴史的「事実」には、すべて証拠が残っているわけではない。それにそもそも一回しか起こらなかった出来事を問題にしているのだから、追試をして正しいかどうか確かめるというわけにはいかない。だから修正主義者は、普通に考えたら疑いようのない、しかし自分たちの政治的立場には都合のよくない歴史的対象に対して《知的な疑い》のまなざしを向けるそぶりをする。するといくらでも《証拠がない》《断言できない》ことがみつかる。
それらを示して彼らは《はっきりとした証拠が無いようなことをさも事実であるようにいうのは知的誠実さに欠けた態度だ。それは「学問」ではなくイデオロギーだ》と主張するのだ。

厄介なことに、彼らのこの作業は《「ニセ科学」批判》と形式的には同じなのだ。
われわれのもつ常識や確信には、しばしば合理的根拠はないわけで、それを《誠実に》疑い出したらきりがない。そこに恣意性が生まれる。《水伝》レベルのものならともかく、《トラウマ》や《人権》のようなものまで科学的でないという理由で批判されることがあるのだ。そういう言説は、それ自身がほとんど「ニセ科学」と化しているように僕には見える。まさにそれは「様々な問題に対して、曖昧さなく白黒はっきりつけるもの」という科学のイメージの濫用だからだ。科学と「ニセ科学」は比較的区別しやすいが、「ニセ科学」と、《「ニセ科学」批判》を区別するのは困難なのである。

Apeman氏を批判したいのではない。逆だ。Apeman氏が普段から実践している歴史修正主義批判は、《「ニセ科学」批判》の一部にある「ニセ科学」性をも問題にするような射程を持っているということなのだ。おなじテンプレを使ったなんばりょうすけ氏の児童小銃 - 視点・論点「まん延するニセメディアリテラシー」 は、むしろこの問題をクリアにみせてくれていると思う。

posted by 甲虫1 at 2006年12月29日 22:05 | Comment(2) | TrackBack(2) | うわさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2006年12月01日

視覚−による−歴史?

 現に目に映る世界の存在をそのまま肯定してしまう《模写説》を取る経験主義者は、当然、現に目に映る政府の存在を国家として肯定する。したがって、もっとも単純な国家主義者となる。ライオンが小鹿を食べるのをみて、前者を百獣の王だと感じるような思考法が、これにあたる。強い者は勝者である、というわけだ。
An Excess of Repetition into the Future - カント読解……
http://d.hatena.ne.jp/vir_actuel/20061130/1164893329


こういう視覚的な比喩に反応してしまうのはなぜだろう?(『表層批評宣言』の影響か?)

いつもは難しすぎて読めないこのブログ(すいません、タイトルも読めません……)も、こういうのが出てくるとわかりやすい。
posted by 甲虫1 at 2006年12月01日 22:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | うわさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2006年11月04日

左翼・新左翼・不気味なもの。


1968年
1968年
posted with amazlet on 06.11.04
〓 秀実
筑摩書房


すが秀実さんの出した新書。
なんとなく存在は知っていたのだが、稲葉振一郎さんがブログで紹介していて興味を持つ。
昔から気になっていたことのひとつに、多くの左翼があまりにもあっさりソ連崩壊を他人事として祝福できていた、ということがあった。[中略―引用者]本書は「反帝反スタ」であったはずの新左翼や市民派の根底にあったある不気味なものを、もっと具体的に抉り出している。
インタラクティヴ読書ノート別館の別館 - すが秀美『1968年』(ちくま新書)http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20061104/p2

なんか読みたいような読みたくないような……。

左翼といっても色々あって、その内部の対立のほうが、いわゆる右/左なんかよりずっと本質的だったりする。
というか、ある種の「左翼嫌い」って、もともと左翼の内部から生まれたものだからね。
すがさんは、左翼の「大同団結」に、前々から微妙に水を差して来たような気がする。うーんどうなんだろう……。稲葉さんがほめる本って、なんか怖いんですけど……。
posted by 甲虫1 at 2006年11月04日 19:50 | Comment(1) | TrackBack(1) | うわさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2006年09月02日

いじめを批判する本質的な理由は存在しない

前に取り上げた、本田由紀氏のブログ閉鎖問題について、もう一人の当事者である内藤朝雄氏(はてなid:suuuuhi)が稲葉振一郎氏を批判する文章を書いている。
全体の趣旨には強く同感するのだが、怒りのあまり稲葉氏らの行動にあらかじめ悪意があったかのような書き方になっているのは良くないと思う。前回書いたように、稲葉氏らの最大の間違いは、善意にもとづいていさえすればそれは「いじめ」とはみなされない、という考え方だと僕は思っている。今回の内藤氏の批判の仕方ではその点が曖昧になってしまう。
 
しかし、それはしかたないのかもしれない。稲葉氏らとつきあい始めたころ、内藤氏はブログにこんなことを書いている。
 
いぢりといぢめの境界はさだかではない。
しかし、いぢりには愛があり、相互性がある。
愛と相互性がなくなってくると、だんだんいぢめになってくる。
ちょっと知恵遅れっぽくて動作がぎこちなくて、ちょとおさない感じのする人は、いつのまにかいぢられ役になっている。そして笑いと嬌声の源泉=愛される者になっていく。かつてはどこの村にもそういう阿呆がいて、愛されながら、なんとか生きていたそうである。
で、
先日、自分がそういう禿しい「愛され方」をしてしまった。
悪童おやぢブラザーズ&太陽輝く若者いっぱいに、さんざん、いぢられ、いぢられ、遊ばれる。

ボクってこんなに愛されていたのね……感涙

http://d.hatena.ne.jp/suuuuhi/20051218
 
僕はこれを読んだ時、内藤さんも「ネットの人」になってしまったんだな、と思った。内藤氏はこんなことを言ってはいけなかったと思う。いじめ理論の第一人者がこれではしかたないではないか。
 
なぜ、いじめはいけないのか? なにか本質的な理由などは存在しない。ただ被害者が傷つくからいけないのである。「愛」や「正義」といった理念(こういう場合、愛も理念の一つだと思う)で、それを絶対に正当化させてはならない。その種の理念のために人間がある、という考え方に反対するのがリベラリズムではなかったのか。
 
リベラリズムについての著作もある(さらにいえば、こういう意味での人間の自由についての深い省察を含むマンガやアニメについての著作も多い)稲葉氏がこういったふるまいを繰り返しているのもダメだが、それに安易に乗ってしまった内藤氏にも反省の余地があるのではないか。
 
しかし、一生の仕事であるはずの自由に対する考察を投げ捨ててしまえるほど「愛」の誘惑は強いのだろうか?
posted by 甲虫1 at 2006年09月02日 20:15 | Comment(5) | TrackBack(2) | うわさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2006年08月29日

ネットにおける共同体的ふるまいについて。

http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20060829#c1156845778

間違っていて、しかも「小物」であったなら、わざわざ相手にしたりしません。無視するだけです。そういう「小物」を叩くことがいわゆる「いじめ」です。
しかしながらこうした、こちらの方での善意があちらに理解していただけなかった、あるいは「善意の押し売り」になってしまった、ということなのでしょうか。反省点があるとすればそこでしょうか。

本田由紀氏のブログが閉鎖した(正確にはプライベートモードになった)件について、そのきっかけになったコメント欄での議論の中心人物の一人・稲葉振一郎氏が、その事件を取り上げた別の方のブログへコメントした文章から抜粋(ややこしいな)。
 
僕はこのもめごと自体にはさして関心がない。そもそも「ひきこもり業界」(僕は単なるシンパにすぎないけど)から見れば、行政が若者の問題に介入することを、「ニート利権」とかいう言葉を作って批判する本田氏は、かなり微妙な存在だったわけで。
 
しかし稲葉氏のこの「いじめ」の定義はどうだろう。誰でも知っているが、いじめの多くは、被害者への「善意」の名のもとで行われる。ところが稲葉氏は、善意が在るかどうかがいじめであるかどうかの分かれ目だと考えているようなのだ。これはまったく逆だと言わざるを得ないだろう。
 
稲葉氏と幾人かの友人は、ネットで活発な議論を展開しており、それはひとつの大きな勢力になっている。
そのひとたちがこういう認識で活動しているというのは、かなり危険なことじゃないのだろうか。
posted by 甲虫1 at 2006年08月29日 22:34 | Comment(0) | TrackBack(2) | うわさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2006年08月20日

オタク系女優。

AV女優の峰なゆかがすごい。
もちろんプロポーションとかもすごいのだが、ここで問題にしたいのはそういうことではない。
では何が問題なのかといえば、それは彼女のブログをみてほしい。
それを読むと、彼女はメガネ系女子でありサブカル女子(しかもかなり濃い)であるらしいのだ!
 
そのつもりで彼女を見ると、独特の味のあるルックスであることに気づく。
子供が好きで、なおかつ香山リカや福島瑞穂にも萌えるというなんばりょうすけさん(今日はひらがな名前の人が多いな……)なら、この感じをわかってもらえると思うのだけど。
 
異性の品定めみたいなことをおおっぴらにするのはどうかと思ったし、こんなことですごいとかいうと逆にAV女優に対する差別になるのではないかと思って書くのを躊躇していたのだが、桂正和の描くパンティのしわとかに言及されてしまってはもうそんなことを言ってはいられないだろう。単純に僕など及びもつかないオタクである。更新が停まらないうちに、一度ブログを訪問されることをお勧めする。
posted by 甲虫1 at 2006年08月20日 14:39 | Comment(0) | TrackBack(1) | うわさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2006年08月01日

ジブリの「ゲド戦記」を褒めてる人がいた

よい評判を聞いたことがない宮崎吾郎監督の「ゲド戦記」ですが、ブログで褒めているかたを見つけました。
貴重だと思うので紹介しておきます。
posted by 甲虫1 at 2006年08月01日 21:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | うわさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2006年07月25日

反アイデンティティ。

だが、私ならこう言う。むしろ、「自分自身が崩壊」するのは、今日の私と昨日の私とを、まるで同じであるかのように見なすときである、と。
 
An Excess of Repetition into the Future - アンチ・カンティアニズムU より
あー、難しすぎてよく理解できませんが、強い興味を抱いたのでメモ。
自己の一貫性そのものが自己を崩壊させる、というのはおもしろいと思う。
(というか、ひきこもりってそれなんだよな。)
ただこれが一種のスローガンみたいなものになるとつまらないので注意が必要かも。
posted by 甲虫1 at 2006年07月25日 22:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | うわさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2006年07月09日

不機嫌の理由。

「七里の鼻の小皺」

マンガ批評(研究?)ブログ。すごい。半日かけて一通り読んでしまった。
往年の村雨ケンジを思い出した(他に思い出すものなんて僕にはないが)。というより、年齢はずっと若いけれど村雨氏と同じ文化圏に属する人なのだろう。あびゅうきょという名前も出てくるし。
結局、彼らは蓮實重彦のいう「年に200本映画を観てくるような優等生」なんだろうと思う。そういう人たちは「自分語り」なんかしないし、する暇がないのだろう。
また、現在のネット(2chやブログ)やオタクカルチャーに対するいらだちも語られているが、それを読んで、東浩紀が同じようないらだちをたびたび表明する(まあ方向性は微妙に違うけど)のはなぜだかわかった。要するにそれは、エリートの責任感というか愛というか、そういうものから来るものだということだ。
posted by 甲虫1 at 2006年07月09日 21:27 | Comment(0) | TrackBack(2) | うわさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2006年07月06日

りべらる?

断片部 - 偽堀江ブログ - リベラリズムの存在証明未満

こういう、考えられる問題点の列挙、というのは好きだ。

自由とか相対主義とかいうと、やはり団塊世代のことを考えてしまう。
上のリンクでも呉智英氏の名があげられているが、団塊世代の文筆家(文筆家にかぎらないが一応)がよくやっている「ケンカ」というのはいったいなんなんだろうと思う。
ふつう、というか団塊以外の世代の場合、だれでも人から否定されるのはいやだし、それがわかっているから安易に人を否定しまいとするものだが、団塊世代はそうではないらしい。
というか、どんなに否定的なことを言ってもそれはひとつの意見に過ぎず、相手を決定的に追いつめたりはできないものだ、と彼らは考えているようにしか見えないのだ。
こういう「不能ゆえの自由」みたいな感覚は、くりかえすけど団塊以外の世代にはあまりみられないと思う。だけど、『うる星やつら』なんかに典型的なオタク系コメディーの伝統(「キャラ」中心的な?)の中には、そういう発想が連綿として受け継がれているような気がする。
(ついでに言えば、柄谷行人が「他者」を強調するのは、このような感覚にたいする違和感というか敵意の表明だろう)。
posted by 甲虫1 at 2006年07月06日 22:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | うわさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |
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