僕の認識もおおむねこんなかんじである。
でも一つ付け加えるとすれば、内藤・杉田両氏のあいだには、一種のカルチャーギャップがあるということもできると思う。
杉田氏の問題の連載のタイトルが「いきすべき批評」であることから明らかな通り、杉田氏はあくまで文芸批評――すなわち"文学"の意識で文章を書いているのだが、もう一方の内藤氏、および上山和樹氏(上記のdemian氏の記事では触れられていないが、上山氏も杉田氏に"批判予告"されているhttp://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20070723/p1)は、"文学"にはからきし弱いのである。これは、両氏の資質の問題が大きいと思う。
文学作品とはメッセージであることを封じられた言葉である――というと聞こえはいいが、要するにそれは何を言ってもいっさい本気にされないということである――のであり、その条件を乗り越えようとあれこれ努力することが作品の完成度を高めることになる。杉田氏の言葉はその延長線上にあり、そのつもりで読めばけっこう良いものなのだろう。好意的批評(http://d.hatena.ne.jp/gordias/20071007/1191683887)もある。この批評の冒頭で書き手(font-da氏)が「杉田俊介が、」と呼び捨てで書き始めているのが、これが"文学"というジャンルの意識で書かれたものであることを示していると思う。
ところが、内藤氏や上山氏はその逆の、すべてのことがメッセージとして機能してしまう世界に暮らしているのである(こっちの説明は、疲れたので略す。両氏のブログなどを読めばなんとなく感じ取れるだろう)。
しかし問題は、杉田氏がそのことをちゃんとわかっていながら一連の文章を書いているのではないか、と思えてしまうことだ。そうでないならハッピーなことだが、もしそうなら、たしかに「それ怖いです」というしかなかろう。
★関連
http://coleopteran.seesaa.net/article/55188748.html
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1回目:フルネーム敬称略
2回目:名字+さん付け
に揃えております。書き始める時に「そうしよう〜」と思ったもので、全然深く考えてません。ご本人に、「呼び捨てにすんな!」といわれたら「ごめん…」って感じです。
横文字の名前は悩むところで、「デリダさん」はおかしいだろうと思うけれど、フランシス・フクヤマはどうなのか?みたいな。やっぱりフクヤマと書いてしまうかも。
どうでもいいコメントですいません。では。
どうも余計な深読みをしてしまったようですね。
2回目以降がさんづけなので、もしかしたらケアレスミスかもしれないとは思ってましたが(失礼なことを言ってごめんなさい)。
わざわざ説明に来てくださってすみません。今後ももし気になることがあったらコメントください。