菊池誠氏のNHK出演(テキスト起こしはうしとみしよぞ -
視点・論点「まん延するニセ科学」
。)を テンプレネタにしたもののひとつ(そのほかのバリエーションはこちらにまとめられている)。
違和感ありまくりで困る。でもそれは、これがテンプレネタだからではないと思う。
作者のApeman氏自身が言っているように、「疑似科学と偽史(ないし歴史修正主義)との類似性は表面的なものではなく、かなり本質的なもの」だ。しかしだからこそ、ほとんど「ニセ科学」を「ニセ歴史学」(歴史修正主義のこと)に入れ替えただけのようなこのネタが、「ニセ科学」を批判することの困難を浮き彫りにしているのだと思う。
元ネタの菊池氏は、ニセ科学の特徴を「断言」に見る。
科学的に誠実であれば、科学者は「歯切れの悪い答え」しか口にできない、ところが「ニセ科学」は、きわめて簡単にすべてを断言してしまう、云々。
Apeman氏も、それをほとんどそのまま踏襲する。「このように、「ニセ歴史学」は実に小気味よく、物事に白黒を付けてくれます」と。
でもそれはおかしい、というか、ある意味正反対なのではないかと僕は思う。
歴史修正主義、たとえば《南京大虐殺はまぼろしだ》という主張は、まさにこの《断言できない》という《学問的誠実さ》の裏をかくことで勢力を伸ばしてきたという側面があるからだ。
歴史的「事実」には、すべて証拠が残っているわけではない。それにそもそも一回しか起こらなかった出来事を問題にしているのだから、追試をして正しいかどうか確かめるというわけにはいかない。だから修正主義者は、普通に考えたら疑いようのない、しかし自分たちの政治的立場には都合のよくない歴史的対象に対して《知的な疑い》のまなざしを向けるそぶりをする。するといくらでも《証拠がない》《断言できない》ことがみつかる。
それらを示して彼らは《はっきりとした証拠が無いようなことをさも事実であるようにいうのは知的誠実さに欠けた態度だ。それは「学問」ではなくイデオロギーだ》と主張するのだ。
厄介なことに、彼らのこの作業は《「ニセ科学」批判》と形式的には同じなのだ。
われわれのもつ常識や確信には、しばしば合理的根拠はないわけで、それを《誠実に》疑い出したらきりがない。そこに恣意性が生まれる。《水伝》レベルのものならともかく、《トラウマ》や《人権》のようなものまで科学的でないという理由で批判されることがあるのだ。そういう言説は、それ自身がほとんど「ニセ科学」と化しているように僕には見える。まさにそれは「様々な問題に対して、曖昧さなく白黒はっきりつけるもの」という科学のイメージの濫用だからだ。科学と「ニセ科学」は比較的区別しやすいが、「ニセ科学」と、《「ニセ科学」批判》を区別するのは困難なのである。
Apeman氏を批判したいのではない。逆だ。Apeman氏が普段から実践している歴史修正主義批判は、《「ニセ科学」批判》の一部にある「ニセ科学」性をも問題にするような射程を持っているということなのだ。おなじテンプレを使ったなんばりょうすけ氏の児童小銃 - 視点・論点「まん延するニセメディアリテラシー」
は、むしろこの問題をクリアにみせてくれていると思う。
2006年12月29日
まん延する「ニセ科学批判」
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雷沼博士って知ってる?
Excerpt: あいかわらず自分の書くものは支離滅裂だな、と思う。 段落によって微妙に主張が変わっていたりするのだから。 「まん延する「ニセ科学批判」」で言いたかったことを、一言で言い換えられることに、書き終わって..
Weblog: 甲虫ブログ
Tracked: 2006-12-30 01:45
ニセ科学批判批判
Excerpt: 「トンデモ」批判的なコミュニケーションが(局所的ではあれ)一種流行になって、「トンデモ」なものを批判なり嘲笑することが自己目的化する(「繋がりの社会性」?)ような場合がある気がして、私はそれはとても不..
Weblog: 甲虫ブログ
Tracked: 2007-02-12 23:21




たしかに歴史修正主義には相対主義を利用するタイプのものがあって、その点に関してはご指摘はごもっともです。疑似科学との共通性は安易に「断言」する傾向性よりも証拠(史料)の非学問的な扱い方の方にこそあるだろう、とも思います。
ただ、テレビやネットを通じて人口に膾炙するようになる歴史修正主義(というより私を指名したrnaさんからして南京事件否定論を念頭においているわけですが)、特に陰謀論的傾向をもつものには明らかに「断言」乱発という特徴があると思います。「人口20万のところで30万人は殺せない」という主張は非常にわかりやすいわけですが、これに反論するには「そもそも当時の人口に関するデータが無い」ことから出発せねばならないわけです。
お返事が遅れてすいません。更新頻度を見ていただければおわかりのとおり、書くのが遅いので。
たしかに南京事件否定論(にかぎらず擬似科学、歴史修正主義一般)がポピュラーになった今日では「断言」のほうがより大きな問題なのは確かでしょう。そのことを否定したいのではないです。
僕が気にしているのは、たとえば歴史修正主義者がしばしば「中道」を名乗ったりするというようなことです。つまり論争やイデオロギー対立を「あらかじめ」離れた真理があり、自分はそれをつかんだ、と信じる人たちがいるということです。
彼らを批判するのに、たとえば「ニセ科学」という言いかたでは弱すぎるんではないでしょうか。