2011年05月17日

停電と主体性

計画停電はヤラセだった、みたいな見出しをつけた記事を載っけた新聞があったみたいで、また「理系」の人が怒ってるんですけど……。

でも、あの当時思ったけど、電気を止めると弱者が死ぬ、っていうようなことを真剣に考えてるんだったら、そもそも計画停電なんて言語道断なわけでしょ? 信号まで止まるって、とんでもないことじゃないですか。

でもそれは、なにやらやすやすと行なわれてしまった。
予期しない停電が起こることをいちばん恐れたんでしょうね。まあそれは電力会社的には仕方ないかもしれないけど、じゃあわれわれ、というか「社会」のほうはそれでいいのか、ってことはある。

あるタイプの反原発の人がよく言いますよね。「原発に反対することは電気の使用に反対することではない」って。原子力は危険だからイヤだというのと、停電はイヤだというのを両方言ってもいいんだ、と。

それとは逆に、「計画停電はヤラセ」に怒っちゃうような人って、なんかトコロテン式というか、こっちから1センチ押されるとこっちから1センチはみ出すとか、そういう発想で考えてるような気がする。

これは、良く言えば誠実だと言えるけど、悪く言えば、そう、無責任。
だってそれは「主体性」みたいなものを認めたくない――自分が責任を取りたくないというだけではなく、世の中には「どうしようもないこと」があるってことをやすやすと認めてしまう、という意味で――ってことだから。

結局こういうのって、この40年ぐらいの日本で許された数少ない「反抗」のかたちのひとつだったんだろうな……などと思ってしまうんですけど、これは通用する場合としない場合があるわけで……。
posted by 甲虫1 at 2011年05月17日 23:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |
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