でも、あの当時思ったけど、電気を止めると弱者が死ぬ、っていうようなことを真剣に考えてるんだったら、そもそも計画停電なんて言語道断なわけでしょ? 信号まで止まるって、とんでもないことじゃないですか。
でもそれは、なにやらやすやすと行なわれてしまった。
予期しない停電が起こることをいちばん恐れたんでしょうね。まあそれは電力会社的には仕方ないかもしれないけど、じゃあわれわれ、というか「社会」のほうはそれでいいのか、ってことはある。
あるタイプの反原発の人がよく言いますよね。「原発に反対することは電気の使用に反対することではない」って。原子力は危険だからイヤだというのと、停電はイヤだというのを両方言ってもいいんだ、と。
それとは逆に、「計画停電はヤラセ」に怒っちゃうような人って、なんかトコロテン式というか、こっちから1センチ押されるとこっちから1センチはみ出すとか、そういう発想で考えてるような気がする。
これは、良く言えば誠実だと言えるけど、悪く言えば、そう、無責任。
だってそれは「主体性」みたいなものを認めたくない――自分が責任を取りたくないというだけではなく、世の中には「どうしようもないこと」があるってことをやすやすと認めてしまう、という意味で――ってことだから。
結局こういうのって、この40年ぐらいの日本で許された数少ない「反抗」のかたちのひとつだったんだろうな……などと思ってしまうんですけど、これは通用する場合としない場合があるわけで……。



