2011年05月09日

俺の無意味な生を愛せ、みたいなこと

無条件の生の肯定(この前の記事――「生の肯定」――で語ったような意味においての)。

たとえば、宮崎駿は生を無条件には肯定しない。

なにしろ、愚図は嫌いだよ! の人なのだ。
生は闇の中でかすかに輝くから尊いのである。

宮崎アニメの描く少年少女はすでに、あるハードルを越えた者たちであり、ぶっちゃけ何のとりえもない俺らには関係ない――なんて批評(愚痴)を、この30年どれだけ聞かされたことか(でも僕も時々そう思う……)。

そのような有能な登場人物ばかりなのは、宮崎氏自身のコンプレックスのせいなのかもしれないとも思うのだが。

『魔法少女まどか☆マギカ』の結末とコミック版『風の谷のナウシカ』の結末、批判してる人が重なってるんじゃないの? という気がするのはたぶん錯覚じゃなく、「生への意味づけ」に対して否定的な人がいるんだろうなあ、というようなことを考えている。



「生の無条件の肯定」は「生が肯定されさえすれば条件をつけるな」にしばしば転化してしまうので危険なのである。
では、それを恐れない理由はなんだろう。
おそらくそれは、自分は誰にもかえりみられることはないだろう、という確信だ。
でも、なぜ、そんなものを持っているんだろう?
posted by 甲虫1 at 2011年05月09日 22:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |
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