2011年05月08日

生の肯定

生存や安全の権利について語ると、それを必要なコストを無視した議論だとして「留保のない生の肯定」と呼んで揶揄する人がいた。

ところで、福島原発の事故をうけて原発に対する批判の声が強まるなか、原子力産業(電力会社)や原発周辺自治体の関係者でもないのに「原発を止めると弱者から死んでいく」などと騒いでいる人たちが目立つ(その人たちの一部は「自分は原発には反対だ」と言っている)。

僕はむしろ、この人たちの思想こそ「留保のない生の肯定」と呼ばれるにふさわしいものなんじゃないかと思う。それは「生」に特定の意味を持たせることを拒絶するものだ。
金がなくて死ぬのはしょうがないが「正しさ」に殺されるのは嫌だ、ということなんだろう。

これは揶揄とかではなく、この人たちにとって、おそらくこの3-40年ほどのあいだに人類が得た最大のものがこの「生の肯定」なんだろうな、というのはわかる。

しかし、その「生の肯定」の及ぶ範囲は限られている(逆に特定の人の生を否定しかねないし、実際この人たちは、たとえば原発が存続することによる死については、かなり寛容であるようだ)とか、それを拡張するためにはそれこそ無限のエネルギーが必要なんじゃないの? とか言いたくなる。



――何かおかしい。これでは立場が逆ではないか。というか、視野を局所化すると意味が反転する、みたいなことが問題なのだろうか?


参照(特にリンク先):



posted by 甲虫1 at 2011年05月08日 00:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |
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