2011年04月06日

知識と善と風評被害

デマや風評被害や差別というのは知識が足りないから起こるとされているように思う。でも僕はそれに疑問を感じる。

デマは≪事実に基づかない≫から問題なのであり、合理的な理由に基づいていれば不平等な扱いをしても差別とは言えない――というようなことは言える。たしかに、ちゃんとした知識がある者が悪意なくそれらを行うことはありえないだろう。

しかし、たとえそれが不合理でも差別は絶対にしないという態度はありうる。
たとえば、たとえ伝染病がうつる可能性が高くてもあえて感染者と平等に接することを選ぶということは可能だ。
それが客観的には人を不幸にする≪悪いこと≫としか評価できなかったとしても、それは別に論理的に矛盾した≪そもそもありえないこと≫ではない。

知識があればデマや差別を防げるというのは、最善の結果を判定しそれに可能な限り近づきうる≪知≫の働きを善とすることから逆算して得られる発想に過ぎないのではないか。そこから見れば、デマや差別が悪いのは、単に全体最適に反するからだ。

優しさだけじゃ人は愛せないから、とか唄の文句にもあるわけで、なにもかも犠牲にして≪善いこと≫をせよ、などと言われたところで、長続きはしないだろうし世界全体の幸福の総量は減っていくだけなのかもしれない。
しかしそもそも、その≪幸福の総量≫をだれがいかにして観測するのか。何が善(目的)であるかということがあらかじめ≪客観的≫に決まっているとしたら、それ自体が不幸だと言えるのではないだろうか?
posted by 甲虫1 at 2011年04月06日 23:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |
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