2011年03月30日

「自由の値段」というタイトルはどうだろう

たとえば、自分のために作られたものでないシステムによってようやく生き延びている存在、というものがあるとする。

そしてシステムがその目的のために再編成されるとき、彼らの居場所がなくなってしまいそうだ、ということがあるとする。

彼らが生き残りうるのは二つの場合。
ひとつはシステムの目的のひとつに、彼らが存在すること自体が加えられること。
もうひとつは、システムの変更が阻止されることだ。

システムが新たに目的を見出しそのために変化することによって自分が切り捨てられる、と怒り出す人がいる。
でも、そもそもシステムには目的があるはずではないか。無垢のシステムなんてものはない。それは誰かに何らかの犠牲を強いているはずだろう。ただ、その目的が犠牲に見合ったものであると考えられるからこそ、その存在が肯定されているのではないのか。

なぜ、俺の存在を目的とせよ、と言わないのか。
そんなに手を汚したくないのか。
決して自分のものではないシステムによって生かされること以上に、それは恥ずかしいことなのか。






(原発を止めるとマイノリティが死ぬ、とか言っている人がいるようなので、前から考えてきたことをちょっと書いてみた。なんか、読み直すと僕はすごい全体主義者みたいじゃないか。次の日には逆のことを考えているんだけどね……)。
posted by 甲虫1 at 2011年03月30日 00:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |
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