2011年02月20日

左翼と自由との、いささかめんどうな関係について



「左翼」という言葉は個人主義と集団主義という対極的な思想の両方と結びつけられるが、これは矛盾している、という話。

これを読んでまず最初に、これ書いたことあるわー、とか「地獄のミサワ」みたいなことを思いました。
でも考えてみれば僕は、この二つの対極にある発想が左翼思想の内部対立の中に実際に存在すると思っていたわけで、分類の不備と考えるこの記事とは違います。

次に、これは≪敵≫のモンスター化という一般論で解釈できることなのではないか、と思い直しました。
「左翼」を批判するのは主に「右翼」や「保守」であり、彼らの何よりの特徴は、自分と他者との扱いの非対称(不平等)を肯定してしまうことであるわけですし。

でも、よく考えたら、これって「自由」――共同性からの――が持つややこしさの問題だと考えたほうがよいのではないでしょうか。

たとえば、ナチスとかポルポト派とか、子供を親から引き離して≪社会的に≫育てる、ということが時に行われるわけですが、それって「個人主義」でしょうか、「集団主義」でしょうか。
それは集団主義に決まってるじゃないか、といわれるかもしれませんが、そして実際にはほとんどがそうなんでしょうが、しかし家族という集団から脱出する/できる、ということは、個人の自由というものの最大の魅力の一つであるわけで、フィクションなどでそういうものが肯定的に語られることはしばしばあることです。

逆に、いま世の中に多くある「自由主義」は、家族(および、それに類する≪自然に≫形成された集団)についてだけはなぜか肯定的であるものが多いような気がします。
そう、「個人主義」かつ「集団主義」という(hamachan氏にとっては矛盾した存在であるところの)「左翼」なるものは、そのような「自由主義」の反対物なわけです。

国家・個人・中間集団の三者の位置づけによって、≪自由≫主義は大きく二つに分けられるようです。
中間集団が国家に抵抗することによって個人を自由にするというアメリカ型と、国家が中間集団から個人を救い出すというフランス型です。
なんかわれわれは、後者のフランス型に対する警戒心――けっきょく国家の肯定になってしまっているのではないか? という――を強く身につけてしまっているようなんですが(旧枢軸国として、国家の暴走に対しての反省心があるんだろうか?)、しかし実際には、われわれが手にできた自由というのは、ある意味このフランス型に近いものでしかないような気がします(いわゆる「ヤンキー憎悪」みたいなものって、それだと思うんですよね)。
この二つが組み合わさると、かなり奇妙な主張になってしまうと思うんですが、しかしそのへんの分析って、ちゃんとなされているんでしょうか……。

――などという他力本願のつぶやきで、今回は終わります。なむあみだぶつ。
posted by 甲虫1 at 2011年02月20日 22:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |
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