その条件とは、それが以下のような主張(の連鎖)を持つような運動であるということ。
- (1)現在、最優先で取り組まねばならない緊急の課題がある。
- (2)それを解決するのには、副作用や政治的な対立に触れる問題がほとんどない効果的な方法があり、それは決断さえなされればすぐにでも実行可能である。
- (3)その方法を実行するために、すべての人が小異を捨てて団結しなければならない。
この論理は「反原発」のときに(そのあとも)広瀬隆が使ったものと同じだと思うんです。
たとえば広瀬氏は、原発は電力不足を解決するために作られたわけではないと言います。現在の電力需要は非原子力の発電所ですべてまかなえるのだと。
これって要するに、原発に反対するのに≪体制変革≫は必要ない、ってことを言いたいんですね。サヨクとかウヨクとか関係ないって。原発はわれわれの社会から切りはなし可能な悪なのだから、と。
でもそれって、人にはそれぞれ立場がある、サヨクはサヨクの、ウヨクはウヨクの≪筋≫(良く言うと≪理想≫ですかね)を通すために、ぜったいに口にできないことがある、みたいな逃げ道をふさいじゃうってことです。正義の相対性を否定するということ。
自分たちに逆らうのはバカか悪人であり、それぞれ矯正され排除されなばならない、なぜなら自分たちがとりくんでいるのは抽象的・独善的でありうる≪正義≫などではなく、生身の人間の生き死にが掛かっている絶対的な問題なのだから、ということになるわけです。
もちろん、そのような論理に従うからといって、人にはそれぞれ良心ってものがあるわけだし、直ちにひどいことになるとは限らないのかもしれない。というか、すべての方面への十分な配慮を伴った変革なんてありえないので、何ごとかがなされるときにはそういう乱暴なやり方も必要なのかもしれない。もっと言えば、そもそも、どんな危険な思想であっても、実力が小さければ大した害にはならないのかもしれない。
だから、単純な善意や学問的な確信ですなおにリフレ派になった人はまあいいのですが、それがヤバいものであることを熟知しながら、あえて≪悪魔に魂を売った≫つもりの人が少数ながらいるのではないか、だとしたらそれってすごい怖いし厄介だ、と思います。
そして、そもそもそういうものがヤバいのだ、という認識があまり行き渡ってないっていうのにも驚きを感じます。というのは左翼批判をよくしている人がリフレ派名乗ってたりするわけですからね。要は、左翼と新左翼の区別をよくつけないまま、自分はサヨクの共同体主義が嫌いだからそういうヤバいものとは関係ないとか思っている人が多いってことでしょうか。≪群集≫とか≪世間≫って、バラバラな個人の集まりなんですけどね。
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というわけで、僕自身もそろそろ年貢の納め時だと思うので(<どういう意味?)、前回書いたのと同趣旨のことをちょっと長めに書いてみた。相変わらず「実証が無い」(でもこれが「実証」されたらもっと怖いとも思うけど)し、ところどころ論旨がよれているのはわかってるけど、それは僕の能力の限界ということで。
あと、僕はそもそも「リフレ」という言葉を知ったころからずっとこういう認識だということは、念のため言っておきたい。



