2009年09月18日

「市民」の話

前回の記事(甲虫ブログ: 弱者とルール)に対して、rnaさんから応答をいただいている。それに対する返答にはなっていないけど、ちょっと続きを。


選挙とか投票とかに対する批判は、市民と非市民の分断に対する批判だろう。
しかし、この国で「市民」であるということはどういうことか。こういう記事があった。
ぼくが思うには、日本社会の場合、非常に根深くあるのは、アナキズムというよりも、国家を頼りにしない代わりに、国家に干渉されることを嫌うといった人生哲学のようなものではないだろうか。これは、ぼくたちの親(特に父親だが)ぐらいの世代、戦中・戦後に青春期を過ごした世代のなかにも強くあったものだと思う。

それを、日本流の自由主義、個人主義的理想という風にもいえる。国家に頼らない、独立した自由な生き方。
飼いならされた自由 - Arisanのノート
この記事でもその後に言われているが、日本においては、こういう「アナキズム」「自由主義」「個人主義」が、必ずしも《反体制》を意味しない。そして、たぶんそれだけではなく、よりよい国家を云々して今ある国家に逆らってくれるよりは、このような無関心のほうが国家のためになっている、ということなわけだろう。

《ネット右翼は投票には行かない》というようなことが言われていて、それは必ずしも実態に即しているとは限らないとは思うんだけど(特に今回の衆院選では)、やはりそう言いたくなってしまうのは、こういう文脈によるのだと思う。彼らが投票したとしても、それは《権利の行使》ではないものだとされているのではないか。

誰が国民とか日本人としてふさわしい存在であるのかを彼らが問うとき、「加点主義ではなく - Living, Loving, Thinking」で言われているように、「「日本人度」の大きさを競うよりも〈反日尺度〉の小ささを競い合う」。どれだけ国家に参加・貢献しているかより、どれだけ《迷惑をかけない》かが問われている。

でも、「市民」であることの特権を持たないことが日本にとってよいことであり、善良な市民であればそれを放棄するのが正しいのならば、市民と非市民の違いに意味がなくなってしまう。
ネット右翼系団体のデモで、外国人に人権なんかないのに、と口にしている参加者がいたという話を読んだことがあるけど(「昨日の続き - U´Å`U」。動画は怖くて見れない。)、これは彼らの中で、市民権が価値低下によって単なる人権(受動的な)と変わらなくなってしまったということを示すとも考えられる。
市民権の人権への失われた優位は、人権の適用範囲を減らすことによって埋め合わされねばならないという理屈が(無意識に)成立しているのではないか。


あと似たようなことでもうひとつ気になることがあって、それは今回の衆院選で民主党に対するネガティブキャンペーンを展開した自民党について《自民党はイデオロギー政党に堕してしまった》という表現がされること。そして、それについて言われる、ネット右翼とそれに迎合した右派政治家はかつての左翼のように大衆の支持を失っていくだろう――みたいな予言。

言いたいことはわかるし賛同するけど、でもこれって上で言ったようなことを考えに入れるといったい何を言っていることになるのか。
「左翼」というのはしばしば正反対の意味(《リベラル・個人主義》と《全体主義・道徳主義》)を持たされるので微妙だとか、単に感情的に「左翼をバカにすんな」とか思ったりとかそういうことを抜きにしたとしても……。
posted by 甲虫1 at 2009年09月18日 22:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |
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