2009年01月17日

「留保なき生の肯定」、あるいは「落ち度」と「結果責任」

■僕はアクセス解析大好きなので(得意げに言うなよ……)、リンク元を探っていると、「留保のない生の肯定とは - はてなキーワード」からアクセスがあったことがわかった。
見に行ってみると、うちのブログの引用とリンクが。
[前略‐引用者]元が何かは分からない。

デカルトともセットで使われる。
これとかヒントになるかもしれないが、読んでない。
これを読んで、なぜ「留保なき○○の肯定」という揶揄がデカルトと関係があるのか理解できたし

http://coleopteran.seesaa.net/archives/200710-1.html
……。「読んでない」って……。この件に関しては、僕も引用されている記事(上の引用ではなぜか一ヶ月分のページにリンクしてあるが……)を書いた時点で多くのことを忘れていたように思う。が、今回ブラウザの“お気に入り”を覗いてみると、関連の記事が登録されていたので、それを頼りににいろいろ調べてみた。どうも2005年の年末から翌2006年の年初にかけて起こった論争で浮上してきたキーワードらしいが、当事者のお一人がブログを閉じてしまっているので全貌がいまいちわからない(当時読んだような気がするけど……)。とりあえず重要だと思われる、
留保のない生を肯定するか、さもなければ - モジモジ君の日記。みたいな。
および、
"先に経済学ありきではない" - REVの日記 @はてな
にリンクを張って、キーワードの筆者であるactivecute氏にトラバを送っておくことにしてみる。

■実は、この議論って、わりと簡単な図式で説明できると思う。

つまり「《法》の論理」と「《政治》の論理」の対立。

法の論理とは、プラスマイナス0から出発して、“罪”や“過失”といった“落ち度”によって減点されていくという発想。

それに対して、政治の論理――“政治”はあまり上手い言葉ではないけど、“経営”とか“統治”とか、「うまくやっていく」というようなことを意味する――では、結果責任が問われる。落ち度があろうがなかろうが、最終的な結果(目的や目標が達成されたかどうか)だけが意味をもつという発想。

「留保のない生の肯定」にいらだつ人は、「《法》の論理」で考えている。
つまり、あらかじめ十分に注意深く在れば“落ち度”は避けられるはずだし、避けられないことを“落ち度”と呼ぶのはフェアではない。それを問うのは「魔女裁判」だ、というのである。

しかし、フェアであろうがなかろうが、世の中には許されないことや守らねばならないものが存在する。全員が落ち度なく法を守って暮らせば悪いことは何も起こらないというわけではない。そこに“政治”や“倫理”の問題が出てくるのである。

この件はもっと展開できるだろうが、体力的にこのへんが限界なのでここまでにしておきたい。

■このあいだ加野瀬氏の記事の感想を書いたら(「団塊ジュニアは反日か?」)「荷宮和子氏は検討に値する言動をしているとはとても思ってない」云々というブクマコメントを頂いた
それにあまり異存はないのだけれど、ただ、僕がたまたま荷宮氏から学んだことがあって、それは、女性は結果責任を押しつけられて生きている、ということだ。

そこから荷宮氏は、落ち度さえなければ「無罪」であるような男性に同情する義理は女性にはないというような話をするわけで、こういうとなにか無茶苦茶なようだけど、実際「《法》の論理」を使ってかなりヤバい主張が「冷静に」なされていることを考えると、あながち見るところのない意見ばかりとも思えないのだった。

こっちの件は、また加野瀬氏がみつけてくれることを期待して、トラバなどは送らないことにする。
posted by 甲虫1 at 2009年01月17日 22:50 | Comment(1) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |
この記事へのコメント
私は知らないのはどのように一种の無限に寄せる思慕の情君はふと、手の中に、お前歩く一条の危険性がある、孤独の道を歩んだ。
Posted by Air jordan at 2011年02月15日 12:01
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