2011年05月29日

ジャンクション

ちょっといま考えていることの文脈をつなげるためにメモしておく。
このあいだ「甲虫ブログ: 俺の無意味な生を愛せ、みたいなこと」で描いたような人たち(の発想)というのは、要するにネットでいうところの「非モテ」(あるいは「男性弱者」)というやつではないのか、というのに、書きおわったあとで気がついた。


で、そこで問題になるのは、彼らが主に男性だということ。
彼らがこだわる無意味な生――他者から意味づけられない生――というものは、そもそもモデルとして賃労働(によって得られるもの)を想定しているのだと思う。

これは、彼らが「働きたくない」と主張する場合でも同じだ。そのとき拒否される労働が家事や育児だったらどうか、というようなことは、微妙に忘れられているのではないか。労働の拒否というのは、おなかをすかせて泣いている赤ん坊をあえて放っておくようなことであるかもしれないのだが。(そのことに気づいて、突然それまでとは正反対の主張を始める人がときどきいる)。

勤めに出て稼いでくる、ということは、家に居るときは休みである、ということだ。しかし、そうでない人はたくさんいる。
主婦がその代表例であるために、これはフェミニストにとって中心的問題になっているわけだが、もちろんそれ以外にも休日とか非番とかいうことが意味のない職業は存在するし、女性が(男性がしてきたように)家事をだれかに押し付ける、ということだって可能である。

なので、この点に関してフェミニスト(およびそれを意識した女性)の意見は微妙なものになる。
これは表現規制問題(これを、もちろん僕は「無意味な生の肯定」を巡る問題の代表的なものだと思っている)について、一方でポルノの性差別性に怒りつつ、もう一方で表現や内心の自由(「オナニーする自由」とか)に対する抑圧に憤る、という分裂(これは一人の人が両方を主張する、という場合だけではなく、いわば「分業」がなされていることもあるが)は、おそらくこれに由来するのだろうと思う※。




※注 性差別に憤ることと、ポルノを楽しむ権利を認めることは矛盾しない、と言われるかもしれない――というか僕もそう言っていた。
それは確かにそうなのだ。
でも、何をしてもしなくても他者の評価にさらされてしまうという現在の女性のありかたと、「仕事」という壁でそれらから守られるという現在の男性のありかたがあるとして、前者の立場から後者を批判することと、女性が後者のありかたを獲得していくことという二つの方向性は、やはり両立は難しいのではないか。
もちろんこんなことはフェミニズムではとっくに議論されていることだとは思うが、すくなくとも何らかの「理論」だの「常識」だの「シンプルな立場」とやらでそれを簡単に解決できるかのように言うとしたら、それには警戒せざるをえないだろう。
posted by 甲虫1 at 2011年05月29日 00:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2011年05月28日

県民指紋制度

1955年、愛知県警は県内で発生した事件・事故被害者の身元確認の迅速化のため、指紋登録制度の運用を開始した。登録の対象者は県内の中学校3年生及び他府県からの新規就職者であり、全員が学校あるいは職場で手の十指の指紋を採取された。登録された指紋は200万件に上り、身元不明者の照会に威力を発揮した。
県民指紋制度 - Wikipedia 県民指紋制度 - Wikipedia


あ、この話、うちの母から聞いたことがある(ちなみに母は1940年生まれ)。
中学のときみんな指紋を取ったって。
これ愛知県だけだったんだ。

登録の際、教師が「将来犯罪者になるつもりがあるなら登録しなくていいぞ」みたいなことを言ったらしい。

そういう中途半端に≪わかっている≫人が関わってるというのはすごく嫌な感じですね……。
posted by 甲虫1 at 2011年05月28日 13:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2011年05月18日

「優先」はヤバいと思う…

悪いがこれはないのでは。

rna 「人類が築き上げてきた文明の度合いとその豊かさの程度は、最も弱い立場にある人たちをどのように遇してきたかによって判断される」その通り。僅かな発ガンリスク低減より途上国の子供の命を救う方を優先すべき。 2011/05/18
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まさに悪い意味での留保のない生の肯定。

このあいだ「「生の無条件の肯定」は「生が肯定されさえすれば条件をつけるな」にしばしば転化してしまうので危険なのである」と書いたことのひとつの実例。

というかですね、「優先すべき」と書くことは、rnaさんがあえて「寄付」という方法をとること――つまり、一般的に正しいかどうかは知らないが≪自分は≫こうしたいと思い、それを実行すること――の意味を薄れさせてしまうことになるのでは。

左翼的正義とある種の自由主義は、混ぜると両方の意味が薄れることがあるのかもしれないのかな、とちょっと思いました。
posted by 甲虫1 at 2011年05月18日 06:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2011年05月17日

停電と主体性

計画停電はヤラセだった、みたいな見出しをつけた記事を載っけた新聞があったみたいで、また「理系」の人が怒ってるんですけど……。

でも、あの当時思ったけど、電気を止めると弱者が死ぬ、っていうようなことを真剣に考えてるんだったら、そもそも計画停電なんて言語道断なわけでしょ? 信号まで止まるって、とんでもないことじゃないですか。

でもそれは、なにやらやすやすと行なわれてしまった。
予期しない停電が起こることをいちばん恐れたんでしょうね。まあそれは電力会社的には仕方ないかもしれないけど、じゃあわれわれ、というか「社会」のほうはそれでいいのか、ってことはある。

あるタイプの反原発の人がよく言いますよね。「原発に反対することは電気の使用に反対することではない」って。原子力は危険だからイヤだというのと、停電はイヤだというのを両方言ってもいいんだ、と。

それとは逆に、「計画停電はヤラセ」に怒っちゃうような人って、なんかトコロテン式というか、こっちから1センチ押されるとこっちから1センチはみ出すとか、そういう発想で考えてるような気がする。

これは、良く言えば誠実だと言えるけど、悪く言えば、そう、無責任。
だってそれは「主体性」みたいなものを認めたくない――自分が責任を取りたくないというだけではなく、世の中には「どうしようもないこと」があるってことをやすやすと認めてしまう、という意味で――ってことだから。

結局こういうのって、この40年ぐらいの日本で許された数少ない「反抗」のかたちのひとつだったんだろうな……などと思ってしまうんですけど、これは通用する場合としない場合があるわけで……。
posted by 甲虫1 at 2011年05月17日 23:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2011年05月15日

市民社会とは何か

この本読んだんだけど。
市民社会とは何か−基本概念の系譜 (平凡社新書)
植村 邦彦
平凡社
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なにがどうというより、中盤に出てくるヘーゲル『法哲学』の引用がすごい。
「市民社会論」はくだらないかもしれないが、そんなことよりどうやったらヘーゲルに勝てるのか考えたほうが良いのではないか。

カントやウィトゲンシュタインは許せんというような人ってヘーゲルについてはどう思ってるんだろう。
posted by 甲虫1 at 2011年05月15日 23:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

第四項

「反原発」「脱原発」と来たら、次は「超原発」しかないのではないか。

具体的にどういうことなのかはわからないが。
posted by 甲虫1 at 2011年05月15日 22:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2011年05月09日

俺の無意味な生を愛せ、みたいなこと

無条件の生の肯定(この前の記事――「生の肯定」――で語ったような意味においての)。

たとえば、宮崎駿は生を無条件には肯定しない。

なにしろ、愚図は嫌いだよ! の人なのだ。
生は闇の中でかすかに輝くから尊いのである。

宮崎アニメの描く少年少女はすでに、あるハードルを越えた者たちであり、ぶっちゃけ何のとりえもない俺らには関係ない――なんて批評(愚痴)を、この30年どれだけ聞かされたことか(でも僕も時々そう思う……)。

そのような有能な登場人物ばかりなのは、宮崎氏自身のコンプレックスのせいなのかもしれないとも思うのだが。

『魔法少女まどか☆マギカ』の結末とコミック版『風の谷のナウシカ』の結末、批判してる人が重なってるんじゃないの? という気がするのはたぶん錯覚じゃなく、「生への意味づけ」に対して否定的な人がいるんだろうなあ、というようなことを考えている。



「生の無条件の肯定」は「生が肯定されさえすれば条件をつけるな」にしばしば転化してしまうので危険なのである。
では、それを恐れない理由はなんだろう。
おそらくそれは、自分は誰にもかえりみられることはないだろう、という確信だ。
でも、なぜ、そんなものを持っているんだろう?
posted by 甲虫1 at 2011年05月09日 22:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2011年05月08日

生の肯定

生存や安全の権利について語ると、それを必要なコストを無視した議論だとして「留保のない生の肯定」と呼んで揶揄する人がいた。

ところで、福島原発の事故をうけて原発に対する批判の声が強まるなか、原子力産業(電力会社)や原発周辺自治体の関係者でもないのに「原発を止めると弱者から死んでいく」などと騒いでいる人たちが目立つ(その人たちの一部は「自分は原発には反対だ」と言っている)。

僕はむしろ、この人たちの思想こそ「留保のない生の肯定」と呼ばれるにふさわしいものなんじゃないかと思う。それは「生」に特定の意味を持たせることを拒絶するものだ。
金がなくて死ぬのはしょうがないが「正しさ」に殺されるのは嫌だ、ということなんだろう。

これは揶揄とかではなく、この人たちにとって、おそらくこの3-40年ほどのあいだに人類が得た最大のものがこの「生の肯定」なんだろうな、というのはわかる。

しかし、その「生の肯定」の及ぶ範囲は限られている(逆に特定の人の生を否定しかねないし、実際この人たちは、たとえば原発が存続することによる死については、かなり寛容であるようだ)とか、それを拡張するためにはそれこそ無限のエネルギーが必要なんじゃないの? とか言いたくなる。



――何かおかしい。これでは立場が逆ではないか。というか、視野を局所化すると意味が反転する、みたいなことが問題なのだろうか?


参照(特にリンク先):



posted by 甲虫1 at 2011年05月08日 00:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2011年05月03日

「健全な科学」

「事態が刻々と悪化する状況において、エビデンスを重視する科学者的慎重さは、事態を過小評価するバイアスになる」という私の主張には、真っ当な STS(科学技術と社会)研究じゃ「「健全な科学(sound science)の詐欺」という呼び名があるんだと知った。
Twitter / @kabutoyama_taro:4月26日

まえに菊池誠氏の、科学者は断言しない云々のコピペがはやったときに僕は違和感を感じたのだが(甲虫ブログ: まん延する「ニセ科学批判」)、その正体がこれか。

でもこんなこと公害病認定や原爆症認定のことをちょっとでも聞いたことがあれば誰でも思いつくはずのことなんだけどね……。
posted by 甲虫1 at 2011年05月03日 20:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |
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