2010年11月27日

梯子の投げ捨てかた

やっぱこれいいなあ。>『ただし問題は、単なる反ユートピア、あるいは単なる反物語はそうした「外部」、過剰としての現実に人を向き合わせるよりは、そこから目を背けさせる方に機能してしまうということである』
5:02 PM Nov 26th :Twitter / flurry

うむ、やっぱりいいんですか。

『』内の引用は「ナウシカあるいは旅するユートピア ナウシカあるいは旅するユートピア」(稲葉振一郎のホームページ)からのものらしい。

「単なる反ユートピア」・「単なる反物語」の反動性(「居直り的な自己肯定、現状肯定を結論することの勧めとして読まれてしまう」)を避けようとするという点あたりまでは、稲葉氏らとflurry氏らは一致するわけなのだろう。どこかで両者の道が分かたれるのか……。

というか、「反ユートピア」を批判するということはユートピア言説のベタさに耐えるということなのだろうが、その≪耐える≫という部分が問題なのか。
posted by 甲虫1 at 2010年11月27日 23:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年11月21日

主権について

《「人民による人民のための人民の政治」というけど、このなかで「人民の」は要らないんじゃないか》というようなことを言っていて、そのときは「?」と思った。[中略]。けど、これ、今ならわかる。

「自由民主主義」という中の、「民主主義」は要らない、と言っているのだ。「自由主義」だけあればいいと。
甲虫ブログ: 主権者のいないはなし
これは、ちょうど一年前ぐらいに書いたことだが、それこそ安彦良和のような人の考え方というのはこういうものだろう。

ただ、彼ら団塊の世代は、こういう考えが≪倒錯≫とか≪罪≫であることを引き受けさせられていたような気はする。
もちろん、現在ではこっちのほうが≪普通≫であるどころか正義であり常識だということになってしまっており、だからこそ安彦氏が≪新左翼系マンガ家≫という扱いになってしまったりするのである。
posted by 甲虫1 at 2010年11月21日 23:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年11月20日

「ノンセクト」の心情と「内政干渉」

安彦良和というのは、多くの同世代人と同じく、右翼なんだか左翼なんだか、過激なんだか保守的なんだかよくわからない人だ。でもこの記事では「ノンセクト」をキーワードにしてそんな安彦氏および多くの同世代人の在りようがうまく表現されていると思う。

ところで僕は、ここで描かれている安彦氏のわけのわからない意見がなぜかあまり不快でない。≪市民≫は無責任に「道義」を振りかざしていて良いのではないか、という気がしてしまったのだ。
実際に安彦氏の作品を読んだらたぶんイラつくんだろうなとは思うし、ふだん言ってることとは真逆だというのはわかっているのだが。

あと、(内政)干渉云々については、今日たまたま以下の二つのブログ記事を目にした。どちらの記事にせよ、干渉はするか/しないかではなく、ひとつの技術であるということを示すものだと思った。
posted by 甲虫1 at 2010年11月20日 18:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年11月19日

暴力装置

訓致化。
ツイッターでは政治家が政治学/社会学における初歩の初歩も知らないのか、として批判者を問題視する反応が(私のタイムラインでは)多かったように思いますが、今回の事案で重要なのはヴェーバーやレーニンがどうということではなく、現代の日本において市民がいかに訓致化されているかということです。
「暴力装置」イコール問題発言の構図 - on the ground 「暴力装置」イコール問題発言の構図 - on the ground
この一件に関しては、「暴力」という語の禍々しさが焦点になっているようなのだが、「ブリタニカ国際大百科では、政治学的には合法・違法にかかわらず物理的な強制力をそう言い、法学的には不当なそれのみを暴力とする」(「格闘技団体は暴力装置? - 電脳如是我聞 - 長尾メモ8 weblog」)という指摘がある。

既に作られてしまった法の中では不当な暴力とそうでない力の行使とは分けることが可能だが、その分割の根拠である法が作られ維持されるための力そのものは不法か合法かは区別できない、ということであり、にもかかわらず現代の日本では前者の区別が(いわば≪先取り≫される形で)自明視されてしまっている、ということだろう。

でもこれ、なんだかこのブログではおなじみすぎて面白味のない話ですね……。
posted by 甲虫1 at 2010年11月19日 22:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年11月18日

ミイラ採りに行こう


ブクマコメントを見ると、みなさんは万能のレッテルとしての「ネオリベ」の乱用のほうに呆れているようなのだが、僕としては、上野千鶴子が自分はネオリベとは無関係だと信じているらしいことのほうが驚き。

もちろん、このツイートを見ただけではほんとのところはわからないわけだが……。

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posted by 甲虫1 at 2010年11月18日 17:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年11月17日

「権利」の位置づけ

これ興味深い(コメント欄および検証記事「相手を不快にする権利? - おこじょの日記」も)。

表現の自由云々でいつも議論が紛糾するポイントはここなんだ。

この記事で言えば、相手が不快を感じたとしてもやむをえない、ではなく、相手を不快にする≪権利≫がある、という言い方ができるかどうか、ということ。

なんか、目的を持たない≪ルールそのもの≫とか≪自由そのもの≫みたいなものを想定すると泥沼にはまるような気がする。これって、陥りがちな罠のひとつだと思う。人間と人間でないものにあまり区別をつけず両者を相互変換できるかのように見ることに≪自由≫を見出す、という発想があり、おそらくそれはこの40年くらい(もっとか?)のトレンドなのだが、しかしそれって、われわれ東アジア人にとってあまりにもなじみがありすぎるというか、安易に流れやすい道であるような気が、僕はずっとしている。
posted by 甲虫1 at 2010年11月17日 22:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年11月15日

理想と実在


50年代当時の人が理想と考えたソ連社会が、こんにち一部で理想とされてる新自由主義的(?)な社会とほとんど変わらないものだった、という話。

貧しいけれどあまり働かなくともすむ社会と豊かだけれど強制的に働かされる社会との選択だったら前者を取りたい人はけっこう居そうだと思う。冷戦末期になっても社会主義国を肯定しようとした――そこまでいかなくとも、それをこの世の地獄として否定し去ることをしなかった――人は、そういう人たちだったような気がする。でも現実の社会主義国がそういうものではないというのは、それなりの見識があればわかるはずのことではなかったろうか。

しかし、今はそういった、冷戦末期の≪社会主義者≫の≪間違い≫を、社会主義に否定的な人が信じてしまっており、しかもその人たちの理想は終戦直後のソ連崇拝と内容的に変わらないものなのである。
これは歴史の皮肉だろうか。もちろんいちばんありそうなのは、ソ連崇拝者と新自由主義者が、≪同じ≫人たち(実際に同一人物でなくとも、トライブというか、人間のタイプとしてかぶっていたりとか)だということだろう。
posted by 甲虫1 at 2010年11月15日 22:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年11月10日

「生活左翼」みたいなものがあったんじゃないかと思いますが。

うーむ、むかし『広告批評』という雑誌がありましてね――みたいなこと言わなきゃならんのですかね?

たとえば『広告批評』でずっとコラム書いてた橋本治が言ってることってもっぱら、この記事で取り上げられてる上野千鶴子が言ってる(らしい)ような、仕事中心で家族をかえりみないような男は孤独死しちまうぞ(ザマアミロ)、みたいな話だけなんであって。(浅田彰もどっちかといえばこっち系で、だから僕の浅田氏に対する評価は微妙なものにならざるをえない)。

これって、消費(女・子供)の側から生産(男)を批判する、というもので、景気が良いときにしか機能しない。
バブルがもう少し続けばよかった、そうしたら「日本的なもの」がもっと徹底的に破壊されていたであろうから、と言った人がいて、僕はそれに強く同感するし、リフレ派は嫌いだけどリフレは必要だなと思うのもそのせいなんだけど、しかしそれは、そっち方面にしか≪弾≫がない、という現実にひきずられてるのかもしれないとも思う。
posted by 甲虫1 at 2010年11月10日 20:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年11月09日

「戦闘美少女」というコラージュ

斎藤環の『戦闘美少女の精神分析』とかあのへんの本は、対談とか雑誌の企画で出たアイデアをむりやり一冊の本にまとめたものなのであって、それ自体の整合性とかはかなりボロボロなのである。

僕は基本的にそういう再編集には否定的だが、でもたとえば、長期連載のマンガなんかでは登場人物のキャラがいつの間にやら変化しているようなことはよくあることなのであって、それを意識せずに作品を読むのは不可能だと思うのだがどうだろうか。

いや、『戦闘美少女の精神分析』がデタラメだと怒っている人をみかけたので。


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posted by 甲虫1 at 2010年11月09日 08:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年11月03日

自らの問題を自ら

[daisensei] これか。/「自らの問題を自ら思考すること。それが哲学であるとすれば、永井均の営みこそまさしくその名に値する」と書かれると、「しかし哲学とは、本当にそういうものなのだろうか?」と続けてみたくなるよね。 / 書評『〈… http://htn.to/ayCi4k
Twitter / さかい: 3:09 PM Nov 2nd
まあ「哲学」のことは僕にとってはどうでもいいけど、ヤバいとすれば、これが倫理の問題だとされる場合。

いや、もうそうなってるのでは……。
posted by 甲虫1 at 2010年11月03日 16:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年11月01日

固有性に対する怒り

たしかに。 RT @yhlee: この発想はなかったな。 RT @kusare_gedou: 虐め経験者は多分「民族差別が絡む虐めだけを取り上げたり特別視しやがって、俺が受けた虐めは同でも良いと思ってんだろクソが」と大.. http://togetter.com/li/63464
Twitter / 9:41 AM Oct 31st 金明秀 Myungsoo KIM:(han_org)
いや、「この発想はなかった」って……。
差別自体に疑問を持たないとかそういう人以外がこだわるのはそこぐらいしかないと思う。

しかもこれって単に感情や心理の問題ではない。

このような怒りを代表する赤木智弘はたまたま「ソーシャル」な問題を再び喚起させたとして評価されているわけだけど、一般にはこの種の発想って、逆に「実存主義」だの「リベラリズム」だの「個人主義」だのの名において現れることが多いはず。

いずれにせよ昨今の問題じゃない。
posted by 甲虫1 at 2010年11月01日 22:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |
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