2010年10月31日

道徳の外にあるもの


いじめや差別、サービス残業などは、歪んだ共同体的道徳がそれを支えている、みたいな考えかたがあると思う。
しかし、これらのTogetterのコメントやブクマを見ていて気づいたのだが、それらの擁護は単に「共同体」や「道徳」の観点からされてるわけでもない。もうひとつ「秩序」の維持という意識があるのだ。

これはけっこう厄介な話だ。共同体の利益や道徳的正義を真面目に追求するのなら、その見解は変化することがありうる。
しかし目的が「秩序」であるならばどうか。目的を問われはしないが、しかし既に存在する以上多くの人がそれに依存しているような秩序の維持を願うというのは、いくらでも無責任かつ利己的、また空想的でありうるのではないか。

生存と正義とか、自由と共同体の対立とかのようなかっこいい話より、もっとしょうもない現実がここにあるように思った。
posted by 甲虫1 at 2010年10月31日 23:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年10月15日

全共闘と浜崎あゆみの関係について

日大全共闘―『僕らの7日間戦争』(特に原作)―浜崎あゆみ、という不思議なとりあわせ。
興味深い。
ところでこれは有名なブログ(または筆者)なの?
posted by 甲虫1 at 2010年10月15日 08:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年10月09日

秘密投票の謎

不思議なことだが、「投票の秘密」というものは、権利でなく義務かもしれないらしい。

どうも秘密投票というのは、まだきちんと理論付けられていないようである。
(世の中けっこうそういうものがある。俗情を盾にする素人を批判する「教科書読め」という決まり文句が、僕はときどきすごく嫌になるが、それはこのせいだ)。

あと、ここでは「一般に、秘密投票は、なぜか、思想家の関心にならない。だれも、その理論的根拠を徹底して考えた人がいない。」と言われているが、柄谷行人はそれについてちょっと気にしているようで、エッセイなどで何度か触れている。でも僕はいま柄谷流の「自由主義」に懐疑的になっているのでちょっと考えてしまうところ。(追記:もうひとつ、秘密投票を批判した知識人の一人にサルトルが挙げられているが、これは近代のたてまえがそのまま権力と結びついているフランスという国の特殊性を考えるべきだろう。これはフーコーの受容されかたなんかを見るとかなり慎重になったほうがよいことだと思う)。

紹介されている本については、「「投票方法と個人主義―フランス革命にみる「投票の秘密」の本質」を含むブログ - はてなキーワード」からたどれるいくつかのブログも参考になる。




posted by 甲虫1 at 2010年10月09日 21:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年10月07日

エピクロスたち

前回の記事の後半だが、なんであんなややこしいことになるのかといえば、≪ポルノは公の場で見せられるべきではない≫というそれ自体は正しい方向性と、≪わかってくれないならせめて放っといてくれ≫というオタク自身の方向性が奇妙な一致を示してしまい、オタク側からすれば≪わざわざ隠れているのに目障りだと言われる。これはわれわれに死ねということか?≫ということになってしまっているのだと思う。

でも本来≪隠れる≫なんてできると思ってるのがおかしいと思うのだが。もしかしたら「自由主義」の理念が悪意ある視線を妨げることになっている、というような理屈なのだろうか。

追記
もちろん、ここで「オタク」は代表例にすぎない。
「サバイバーの誇り」に固執してややこしいことになっているタイプのマイノリティはけっこう多い(もちろん他人事ではない)。
そして、それが弱者に対する攻撃になってしまっているときは、何を言われようと批判しなければならないだろう(これも他人事ではない)。【10/8 08:10ごろ】
posted by 甲虫1 at 2010年10月07日 23:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年10月03日

被差別と「社会的集団」

問題を対人関係的にしか捕らえられないというのは、なんか僕自身の感じ方や言動にも思い当たる(または僕が他者からそう見られている)節もあってちょっと微妙な気分になるのだがそれはともかく、こういう話をするについてはもっといろいろな前提があるような気がする。

たとえば、ここで言われているそういう「人たち」のひとつの例が「オタク」という存在である。

オタクカルチャーの中心にあるマンガ・アニメ・ゲームは、いずれもストーリーのあるフィクションであるということはもっと注目されてよいのではないだろうか。
ある種のフィクションにおいては、登場人物が主体的に倫理的な決断をなすことが期待される。そのなかでは暴力や殺人は現実におけるほどの罪とはみなされない場合がある。というか、現実の法だって、たとえば人を殺すことがイコール「殺人」であるとは限らない。しかも物語で描かれているのは極限状態なので、そこでは必ずしも「普通」の正しさは問われないのだ。
(なので、フィクションに対する社会的非難は暴力より差別のほうに強く向けられる。前者のほうが悪影響あるに決まってるだろ、って言ってた作家さんもいたけどね――もちろんそれは前者がこれからも規制されないこと、またポルノ一般が意図的な性差別であったりしないということに対する確信があるから言えることなので、差別を肯定しているわけではないはずだが)。
そういう発想をわりとそのまま現実にも適用している人がけっこういそうな気がする。これはいわゆる「フィクションと現実の区別がついてない」というのとはちょっと違うと思うのだが、小さくないことだと思う。

もうひとつ、これは前から言ってるけど、オタクっていうのは、一方では学校的な「よい子」カルチャーなのであって、「不良」と「左翼」(セックスと政治)に対するライバル意識というか反感を強く持っている。でももう一方では「大人たち」に対する反抗も手放さない(これは「成熟」に対する反発でもある。成熟という観点から見れば、不良生徒や左翼学生は一種の通過儀礼としてある種の大人に評価される余地を残している)。そのような存在がよってたつ論理は、「なにも悪いことしてない」とか「(明示的な)ルールを破っていない」というものでしかありえない。このように考える人は、社会に明示的な目的がある(ありうる)ということに対して否定的にならざるを得ないだろう。
(こうしてみるとオタクって新自由主義の申し子みたいに見えるな……)。

これらのことが何を示すと僕が考えているのかといえば、ここにあるのはひとつの「文化」だということだ。
冒頭に掲げたリンク先では、「社会的集団への侵害は見えない人たち」のサンプルのひとつが(このまとめには入っていないものの)大学教員である発言者のお一人が接する大学生だったりするので(大学生って、一定の限度があるとはいえ全国の様々な階層から集まって来るわけで、いわば無作為抽出みたいに思っていいだろう)、それがあたかも日本社会の自然な傾向であるかのように考えられているように見える。
また、ここの主要な発言者のかたがたは社会学者なので、人々の無意識の傾向性を指摘するのが仕事なのでしょうがないということはあろう。

しかし、社会的集団に目的が存在すること自体が悪だと考える人が「社会的集団への侵害」に配慮しないのは単に当たり前ではないか。それはむしろ倫理的なことだと解されているのかもしれない。そして、現実には多くの人はそれを実生活で身につけてきたのだとしても、文化的なものに触れたときにもそれが大きく否定されない、それどころかそれを肯定してくれる論理が存在する、ということを見なければいけないのではないのか。
――というのが、文芸批評で育ってきた(もちろんこれは比較の問題であって、実際にはそんなに詳しいわけではないが)僕のこのまとめに対する感想である。

××

あと、前編(というか「全編」か)たるTogetter - 「過激ポルノ表現「自重論」は“人権侵害”?」 Togetter - 「過激ポルノ表現「自重論」は“人権侵害”?」にも一応ざっと眼を通したので、ちょっと言及しておく。
たしかにどうしょうもない人はいるものだが、そこには上に書いたような理由で触れない。

単純に言って≪ポルノを公の場では見せなくてもいいんじゃない?≫、というのが、たとえば≪在日は見た目は日本人と変わらないのだから通名を使ったほうが差別されることが少ないんじゃない?≫というようなものと等価であるような観点があるということを認めうるかどうか、みたいなことが問題になっているような気がする。もちろん両者がまったく≪同じ≫であるわけがないが、後者を批判しているのに前者を肯定するのは差別を≪客観的≫に判定しようとしているとか被差別者特権を独占しようとしているということだ、みたいに怒ってる人がブクマを見るといる。これをどう考えたらよいか。

でも、マイノリティ運動はふつう、マイノリティが無視されることに怒る。それは社会という全体を想定し、その中にマイノリティも正当な場所を与えられることをよいことだと思うことだ。でも、同じマイノリティ意識を持っている人でも、それが気に食わないタイプがいる。

上に書いたように、もし社会的集団を悪としてそれを避けるのがオタクならば、そもそもそういう人にとってどういう社会が理想なのか。たまたまそうであったことがそのまま肯定されるような世界がそれなのか。だとしたら、それをシャッフルして再編しようとするものは、その方向性はどうあれ、それ自体が悪だということにならないか。
posted by 甲虫1 at 2010年10月03日 22:27 | Comment(0) | TrackBack(1) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |
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