2010年09月20日

殿様のはなし

本筋とは違うかもしれないけど。

僕にはずっと、この件――というか、広く「リフレ派」と「左翼」の関係――って、≪階級≫とか≪身分≫の上下みたいな話に思える。もちろんこれは比喩ですけど。

つまり、なにか必要な政策があって、そのために大同団結しなければならない、ということがあったときに、普通なら「大同」のために「小異」を隠したりあえて無視したりということをお互いにしなきゃならんわけですよね。ところが、そんなことおかまいなしに、○○っていいよな、とか××はありえない、とか平然と口にしてとがめられない殿様と、それに抗議すると団結を乱す気かとかお前には目的に対する真剣さが足りないとか言われる足軽という差別が発生するわけです。

そこでなんで怒らんのよ、というだけの話なんじゃないの? と思ってるんですけど違うんですかね? サヨクがうるさいから今は黙っとこう、という程度でいいと思うんですよ。別に本心でどう思ってようが関係ない。なんでそれぐらいやってくれないんですか、ということなんでしょう、本筋は。
逆はさんざん言われるんですけどね。サヨクが原則論を振りかざして分裂を煽ったので勝てる戦いに負けた、とか。

これは大事なことだと思うけど、民主主義って、それ自体が目的なわけです。それを棚上げにしたらもっとうまくいく場合があるって、特に専門家の人は思っちゃうのかもしれないけど、それやったらおしまいなんだ、というのが、一般にファシズム云々という言葉で表現されていることだと思います。
posted by 甲虫1 at 2010年09月20日 09:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年09月19日

差別者は差別しても良いのか、という言説(追記のほうが長いよ……)

ここでhokusyu氏が言ってるようなことを柄谷行人はずっと昔から言っている(そして、たとえば東浩紀のような人はそこから離脱してきたのだ)。
つまりこれは20何年か前から積み残されている問題だということ。ただ、切実さはずっと強くなってきているような気はする。

【長すぎる追記】

肝心なことを書くのを忘れていた。
柄谷行人って「アメリカ帰り」の思想家なんだよね。でも渡米したのはデビュー後で、よくある留学してナショナリストになって帰ってきた、という感じにはならなかったし、なにか新しいものを「輸入」する立場でもなかった。
彼は日本の事物ではなく「日本」というあり方そのものをコンテンツにしようとした(東氏のオタク関係の仕事は、それを意識しているはずなんだけど……)。
これは、それが流通するはずの「世界」の普遍性を信じていた、ということだと思う。
これって世代的なものも大きいと僕は思っていて、たとえば角川春樹や内田裕也は柄谷とほぼ同年だ、と言えば何ごとかが理解されるものと思う(宮崎駿や富野由悠季も同世代)。
こういう柄谷氏のあり方が、多くの戦後生まれの後進を苛立たせたことは想像に難くない(上に挙げた同世代人に対する評判をイメージせよ)。
昨今の「はてサ」を巡るいざこざの多くは、この延長線上にあると思う。
posted by 甲虫1 at 2010年09月19日 14:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年09月15日

他者の思考形態を語る

全体の趣旨はともかく後半は……(いや、よく考えたらそれもな……)。

でも考えてみれば、僕だってひきこもりやニートの友人とかいないわけで(それ以外でも友人はいないが……)、実態はよくわからないのだが。
posted by 甲虫1 at 2010年09月15日 08:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年09月14日

または「こっちみんな」系

なんというか僕は、≪ボヤキ系≫とでもいうべきタイプの人の文章を読むのが大変に嫌いなのである。

そういう人の言うことは、なんか≪深い≫ような雰囲気を漂わせているので、ついつい一生懸命読んでしまう。だが、その≪深さ≫とは、要は生身の筆者が文章とは別のところに存在しているという感覚であるわけである。しかし、結局のところ、それを作り出しているのはいま僕が読みつつある文章そのものでしかないのである。

つまり、なにか≪語る根拠≫のようなものが、言説の背後にあるように装いながら――というか、実際にあるのかもしれないけどそれを明らかにはせず・または妙に自分を卑下したりして、しかし自分の言説の真正さに対する強い確信は保ちながら自論を展開したり他者を攻撃したりはする、という態度をとるようなタイプの人がけっこういるのである。
これは非常にイライラする。

ん?――これ、僕のことか?

あー、いやいや、でもこういうのがある種のメタ政治的な態度としてあり、しかもそういう人が他人の政治性をあげつらって批判してたりするのを見ると、腹が立って夜も眠れなくなったりして、非常に健康に良くないのだった。以上。
posted by 甲虫1 at 2010年09月14日 22:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年09月12日

こういうふうに考えている

死刑についてはこういうふうに考えている。

人には自分を殺す意志と能力があるものを殺す権利がある、というのが原則だとすると、死刑囚はわれわれすべてを殺してもいいことになってしまう。
さすがにそれは僕はイヤなので、死刑は廃止すべきだと思っている。

しかしこの論理はそのまま、死刑を廃止すべきではない理由にもなりうる。
人には全世界を敵に回して死んでいく自由もまたあるのではないか、と。



――もちろん、ある種の共同体主義(敵/味方論?)を採ればこのようなことはまったく問題ではなくなる。
そしてたぶん、それがわれわれの時代の思想なのだ。
posted by 甲虫1 at 2010年09月12日 06:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年09月11日

二つの信仰

東浩紀がネットで(多くはしょうもない)騒動を起こすたびに、ポストモダン(ポモ)がどうのこうのと揶揄されるのだが、そういうとき、オリジナルの「ポモ」論者(彼らがそう呼ばれることが適切か否かは別として)は、決して東氏のようには軽率でないはずだという判断を、多くの人はしていると思うし、僕もそうしている。

しかし、ここでは、ドゥルーズやデリダといった「本物」たちの哲学の中にある、精神分析のいわば「乱用」が指摘されている。だがそれは単なる間違いやインチキというより、それ自体がひとつの魅力として存在する。
とはいえ、ドゥルーズやデリダの言説は(というか「哲学」は)、世界の分析−分節−認識であるよりも、世界を「信じる」ための根拠をこそ(それが「幻想」と呼ばれるものであったとしても)探求するもの(つまりはじめから「美的」なもの)なのかも知れないのだが。
2010-09-06 - 偽日記@はてな
僕はドゥルーズやデリダの著作を直接読めてはいないのだが、しかしここで「美的」とか「幻想」とか「信仰」などと呼ばれるもののほうに、僕もまた魅かれる。



ここで取り上げられている樫村晴香を含む、ある世代以降の現代日本の知性の中に、僕はある種のリアリズム指向とでもいうべきものをどうしても感じてしまう。それは客観的な≪現実≫がハンパな理念を排除してしまうことを強く望む感性だ。
欧米の思想家について、キリスト教の影響ということがよく言われるが、こういう感性の根底に、実はわれわれの隠れた「信仰」があらわになっているのではないかとも思える。
posted by 甲虫1 at 2010年09月11日 10:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年09月01日

メタ世代の憂鬱

あのー、ここで批判されている人たちの顔ぶれが、前に書いた「闘わないことが闘い」の登場人物とほぼ重なってるんですけどー(まあ僕の書いた内容のダメさはともかく)。

要は、サヨクみたいに道徳的に責めるだけでは現実の悲惨は無くならない、と考えることが倫理的なありかただとされた時代があって、その風に吹かれて育った人がこういうことを言う、ということなんでしょうね。

でもここは重要な焦点になるはずのところ。単に悪いことが無い(少ない)ということと、あえて悪を為さないということとはどちらが大事なのか。そしてそれをするのは、または判断するのは≪誰≫なのか。
posted by 甲虫1 at 2010年09月01日 22:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |
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