2010年02月28日

そういえば『ポニョ』を観た。

*追記しました。

そういえば『ポニョ』を観た。

これはたしかに変な映画で、物語の構造を一応はなぞっているのだが、それが作品の盛り上がる部分と重なり合っていない。

童話や児童文学(というかファンタジーだな)は現実の反映という大義名分がないため、物語の構造に支配される。宮崎駿はそれらをよく勉強しているので、そのスタイルを手癖として身につけてしまっているのではないか。だから《名前を与えられる》だとか《人間になるための試練》とかいう、普通なら最大のクライマックスであるにふさわしいものをストーリーに盛り込んでしまう。しかしそれは登場人物にとって大して重要ではないように見えるため(ポニョの父ただ一人がそれにこだわっているだけだ)、観ているほうが混乱するのである。
むしろそういうものが初めから一切なかったほうが、受け入れられられやすかったのではないか。

その点で、あとで知って面白いと思ったのは、『ポニョ』の制作時に宮崎駿が夏目漱石を読んでいたという話。漱石は「写生文」から小説に移行した人で、要するにストーリー(物語)指向じゃないわけですね。『ポニョ』の不思議というか興味深いところは宗助の感じる《不安》で、あれがなんなのかわからなかったので、そうか夏目漱石か、と思ったわけです。
そういえば『夢十夜』をちゃんと読んでないような気がする。

*肝心なことを書くのを忘れていた。
《不安》というのはホラーのコードなんですね。『ポニョ』をきもちわるいと言った人が結構いたのはそこら辺も関係あるのかもしれません。



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posted by 甲虫1 at 2010年02月28日 20:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年02月27日

弱者権力への抵抗?

contractio F 「弱者が PC をかざしてふるう権力」という表現があることを知った。 2010/02/27
はてなブックマーク - 社会的栞

……このコメント、イヤミか皮肉ですよね?

そういう弱者の「権力」や、差別されているひとたちが行う「差別」と戦っているつもりの人が世の中にはたくさんいる――それどころか、Webではちょっと前まで(?)それが主流だったんだというのは常識だと思ってたんだけど、案外そうでもないのかも、とちょっと不安になってきちゃったんですが。

いや、むしろ、そんなことは知らないけどまともな感覚をもっている人がどっかにちゃんといてくれたほうがいいのかもしれないですね……。
posted by 甲虫1 at 2010年02月27日 22:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年02月18日

何に対する、どういう甘えなのか?

70年代以降、社会主義=国家主義=悪という図式が喧伝された結果、《左翼とナショナリズムを共に否定する立場》とやらが、倫理的であり、なおかつすべてを解決しうる新しい思想であるかのような扱いをされるようになったわけだが――そのひとつの結論がこれ。田中康夫を「風見鶏」と評するブクマコメントがいくつかある(政治家としての振る舞いとしてはそうなのかもしれないけど、僕にはよくわからない)。
あと劣化とか転向、“化けの皮がはがれた”とか思っている人も多そうだ。

でも田中氏がずっと言っていた国家に頼らないというようなことは、はじめからこういうことなんじゃないの? そして僕は、そんな田中氏たちのいうことを、なんか国家に抵抗しているっぽいという一点で、なんか反体制でかっこいいと思って来たわけだ(この件については、どうしても『広告批評』という雑誌のことを考えてしまうわけだが……)。

今思えばアホか、という話だが、ここを否定するとかなり多くのものを道連れにしなきゃならないし……などと思い始めてはや数年だったりする今日このごろ。

関連:「甲虫ブログ: 自己責任と「世間」

※一応言っておくと、田中氏がナショナリズムを否定してないというのはわかってます。
posted by 甲虫1 at 2010年02月18日 22:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年02月13日

強きを助け 弱きを憎む…

低気温のエクスタシーbyはなゆー: 「ネット右翼」が社会的弱者に冷酷な理由の考察」経由で、「Kirokuroの床屋政談日記 : ネット右翼は何故社会的弱者に酷薄なのか?」から孫引き。
(中略)強者への愛、弱者にたいする嫌悪、小心、敵意、金についても感情についてもけちくさいこと、そして本質的には禁欲主義というようなことである。かれらの人生観は狭く、未知の人間を猜疑嫌悪し、知人にたいしてはせんさく好きで嫉妬深く、しかもその嫉妬を道徳的に公憤として合理化していた。かれらの全生活は心理的にも経済的にも欠乏の原則にもとづいていた。
(エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』より引用)
Kirokuroの床屋政談日記 : ネット右翼は何故社会的弱者に酷薄なのか?
これはフロムが「ナチスを礼賛したドイツの下層中産階級の心理を分析」したもので、それは「ネット右翼にも当てはまる」という。

確かにそれには同意なのだが、僕が驚いたのは、このフロムの描く人物像が、80年前後にビートたけしが売り出したころの(彼自身が作った)キャラクターによく似ているということ。そして当時は、そのイメージは「芸能界」だけでなく、《硬直した大人たち》に反抗するサブカルチャー系メディア全般でもてはやされていた。
――そのなかでも、僕は呉智英のことを強く連想する。呉氏は公言しているようにテレビをほとんど見ない人であり、だからこそその陳腐化を意識することなく、このようなキャラクターを90年代まで持ち越すことが出来たのではないだろうか。

しかし、なぜそのころ「ナチスを礼賛したドイツの下層中産階級」的キャラクターが道化としてもてはやされるというようなことが起こったのだろうか。
当時はそれは「毒」として意識されていたように思う。そのような存在はそのうち滅びてしまうか、社会の豊かさや秩序化によって周縁化・無害化されてしまうとみなされていたのだと思う。あれはそのような「新しい社会」に対する抵抗だったのだ。しかし、そのような新しい社会とやらは一度でも存在することができたのだろうか。そして今は?

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posted by 甲虫1 at 2010年02月13日 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2010年02月07日

逆鱗とかその他

もう終わった話なんだろうけど。
rinsenan 「ガメさんの本質は寓話作家なんだから、この場合ガメさんが突っ張る必要は無い」と個人的には思うんだけど。やっぱり逆鱗かなあ。 2010/01/25

このひとはカマヤンさんのところへのブコメでも「逆鱗」がどうとかおっしゃってるが、意味が分かんない。私が言っているのは「靖国問題矮小化」の件にせよ「きんぴらごぼう」の件にせよ要するに「テキトーなこと言うなよ」に尽きるんだが。「寓話」というのは嘘とは違うんですけどね。
ブクマコメについて - Apes! Not Monkeys! はてな別館
「逆鱗」という表現をしたくなるのはわかる(ただしそれはApemanさんについては当てはまらないと思うけど)。
ひとこと批判的に見えるようなことを言われたら敵扱い、というのにはやはり驚いてしまうわけで、背後に何か《真の原因》みたいなものを想定したくなるのは自然だ。
常識的に考えれば、それは第一には本人の性格の問題だろう。
また、「はてなブックマーク」のシステムに初めて触れたことによるカルチャーギャップがあったのかもしれない。たしかに、通りすがりに「正しい」ことを言い捨てていく、というのは、日本的な「世間」の仕打を思わせる。「世間」はそのようにして手を汚さずにマイノリティを裁くのだ。不幸にして「はてブ」がそういう場だと認識されてしまうことがあるのかもしれないと思う(僕はそうは思わないわけだが……)。


ちゃんと書いておこう。ガメ・オベール氏の言説には、僕は批判的である(もう読めないけど)。氏は曽野綾子批判の記事で大いに共感を集めたわけだが、そのつづきに元性犯罪者の住所公開を肯定的に語ったりしているのだ。
敵と味方を分け、敵に抵抗するにはあらゆる手段を使え、そしてそれが正義だ、というのが、ブログ全般から伺えた氏の論理である。これが、ガメ氏自身も引用する山本七平の立場、「事実であろうと、なかろうと」に通じるものだというのは言うまでもない。
そして、厄介というか困るのは、これがいわゆる60年代以降の反差別運動に通底する部分があるということだ。ガメ・オベール氏が評価されていたのは《弱者の視点に立つ》とかそういうこと関連なのだ。自分さえおとなしくしていれば丸く収まる、という思考を押し付けられがちなマイノリティを勇気付けるための言葉だと、それは受け止められていたのである。

あからさまに言おう。マイノリティに対してあなたは悪くないのだと言うことと、戦前戦中の日本に対してそう言うこととを「同じ」と見てしまう人がいるのだ。そして、ある意味僕もその区別ができない人間の一人だ。前者は実際に悪くないのだが後者はそうでない、と断言できない。様々な事実や、個人と国家の区別などからそのような結論が妥当なのだとしても、そのような「客観的」な判断を拒否する権利こそが与えられるべきものだ、というのがそのような主張の核にあるものなのだから。
そしてそれは、犯罪と非犯罪は「客観的」に区別可能であり、前者のみを機械的に排除することによって人権と自由を両立できる、という考え方と対になっているような気がする。まあ「大文字の他者の不在」とかなんとかそういう話なのだろう。でも、いなくなったというのなら、なぜわれわれはこんなにもそれを恐れてしまっているのか。
posted by 甲虫1 at 2010年02月07日 22:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |
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