2009年09月20日

「オール社会主義者」政権

[前略]現在の民主党というのは、ある観点からすれば「オール社会主義者」と指弾されるように、要するに「経世会」的なもの(より広く言えば「55年体制」的なもの)のアップデートを指向している存在になっている。つまり、価値としては過去と同じかそれに近いものを、手段としてオープンかつクリーン(+リーズナブル)にやろうとしている。その点では、「戦後レジーム」からの「脱却」を訴える人とは明確に異なっていると思う*3。
政権交代雑感 - on the ground
えー、そうなんだ。

ちなみに、上の引用中で言われている、民主党を「「オール社会主義者」と指弾」している「ある観点」とは「Libertarianism@Japan」というブログの「Perfect Socialism」という記事のこと。(ちなみにこのブログはSeesaaブログを使ってますね。Seesaaはリバタリアンにふさわしいのだろうか。なんとなくそんな気はする)。

民主党政権がそういうものなら、それは「保守」でありつづけるために左翼になった大塚英志のようなタイプの人にとっては好ましいのだろう(実際の大塚氏がどう考えているかはわからないが)。

逆に、小泉改革には批判的でも、小泉に投票した人のニーズは大事だ、とかいうタイプの人には、この政権は危険なもの(「大政翼賛会」だ、とか)に見えるのかも。



posted by 甲虫1 at 2009年09月20日 14:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2009年09月19日

先祖は小型。

いままで僕はなんとなく、大型肉食恐竜は大型肉食恐竜の内部で分岐しているかのように思ってたけど、そうではないっていうことだよね、これは。
「ティラノサウルス属」って言うけど、「属」って種のすぐ上ぐらいのくくりだよね。それが6000万年も保つっていうのもすごい。


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posted by 甲虫1 at 2009年09月19日 08:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2009年09月18日

「市民」の話

前回の記事(甲虫ブログ: 弱者とルール)に対して、rnaさんから応答をいただいている。それに対する返答にはなっていないけど、ちょっと続きを。


選挙とか投票とかに対する批判は、市民と非市民の分断に対する批判だろう。
しかし、この国で「市民」であるということはどういうことか。こういう記事があった。
ぼくが思うには、日本社会の場合、非常に根深くあるのは、アナキズムというよりも、国家を頼りにしない代わりに、国家に干渉されることを嫌うといった人生哲学のようなものではないだろうか。これは、ぼくたちの親(特に父親だが)ぐらいの世代、戦中・戦後に青春期を過ごした世代のなかにも強くあったものだと思う。

それを、日本流の自由主義、個人主義的理想という風にもいえる。国家に頼らない、独立した自由な生き方。
飼いならされた自由 - Arisanのノート
この記事でもその後に言われているが、日本においては、こういう「アナキズム」「自由主義」「個人主義」が、必ずしも《反体制》を意味しない。そして、たぶんそれだけではなく、よりよい国家を云々して今ある国家に逆らってくれるよりは、このような無関心のほうが国家のためになっている、ということなわけだろう。

《ネット右翼は投票には行かない》というようなことが言われていて、それは必ずしも実態に即しているとは限らないとは思うんだけど(特に今回の衆院選では)、やはりそう言いたくなってしまうのは、こういう文脈によるのだと思う。彼らが投票したとしても、それは《権利の行使》ではないものだとされているのではないか。

誰が国民とか日本人としてふさわしい存在であるのかを彼らが問うとき、「加点主義ではなく - Living, Loving, Thinking」で言われているように、「「日本人度」の大きさを競うよりも〈反日尺度〉の小ささを競い合う」。どれだけ国家に参加・貢献しているかより、どれだけ《迷惑をかけない》かが問われている。

でも、「市民」であることの特権を持たないことが日本にとってよいことであり、善良な市民であればそれを放棄するのが正しいのならば、市民と非市民の違いに意味がなくなってしまう。
ネット右翼系団体のデモで、外国人に人権なんかないのに、と口にしている参加者がいたという話を読んだことがあるけど(「昨日の続き - U´Å`U」。動画は怖くて見れない。)、これは彼らの中で、市民権が価値低下によって単なる人権(受動的な)と変わらなくなってしまったということを示すとも考えられる。
市民権の人権への失われた優位は、人権の適用範囲を減らすことによって埋め合わされねばならないという理屈が(無意識に)成立しているのではないか。


あと似たようなことでもうひとつ気になることがあって、それは今回の衆院選で民主党に対するネガティブキャンペーンを展開した自民党について《自民党はイデオロギー政党に堕してしまった》という表現がされること。そして、それについて言われる、ネット右翼とそれに迎合した右派政治家はかつての左翼のように大衆の支持を失っていくだろう――みたいな予言。

言いたいことはわかるし賛同するけど、でもこれって上で言ったようなことを考えに入れるといったい何を言っていることになるのか。
「左翼」というのはしばしば正反対の意味(《リベラル・個人主義》と《全体主義・道徳主義》)を持たされるので微妙だとか、単に感情的に「左翼をバカにすんな」とか思ったりとかそういうことを抜きにしたとしても……。
posted by 甲虫1 at 2009年09月18日 22:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2009年09月05日

弱者とルール

rna 運動, 政治 「少数派の多くは弱者なのである。実力で戦ったら弱者が負けるに決まっているのも事実ではなかろうか」戦いのルールは弱者のためにこそある、のだけど強者のルール違反に逆上してルール違反して自滅する人も… 2009/09/05
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前回の記事(甲虫ブログ: 選挙に行っちゃいけないの?)に対するブクマコメント。
あの記事は、このブクマコメントで引用してもらっている部分が書きたくて書いたので、あとは蛇足である。
ただ、元ネタから考えるとあれは本当は、

《実力で戦ったら弱者が弱いに決まっている》

のほうがよいだろう(ダブる部分が違うけど)。書き終わってから気づいて、しまったと思った。

ところでいただいたコメント(ブコメは別に筆者に対してのものばかりではないわけだが)の内容なのだが、「戦いのルールは弱者のためにこそある」というのはどうだろう。もちろんそれが理想なわけだけど(というより、単に弱者が勝つチャンスはそこにしかないということだろう)、そうとばかりは言えないという理屈があるのかな?――というのが、僕が元記事の後半でゴニョゴニョ書いていることなのである。

というかそもそも、自分の生存を否定するルールに従う必要なんかない、というのが原則なんじゃなかろうか。
自己決定とか自己責任とかいう一見リベラルな理屈でこの原則をないがしろにすることによって「世間」が新しく生命を吹き込まれるとか、そういう話にまたなるのではあるが……。

ぜんぜんまとまってないけど、とりあえずメモとして。
タグ:自由
posted by 甲虫1 at 2009年09月05日 22:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2009年09月03日

選挙に行っちゃいけないの?

衆院選について書かれたブログ記事などを読んでいると、僕の観測範囲の左翼系(アナーキストや自称ファシストもいるので革命系?というべきか)のブログに、投票や選挙制度に対して否定的な見解を示すものが多いことに気づいて意外に感じた。

もちろんその多くは、投票を義務だと言ったりとか、そこまで行かなくても棄権や白票を非難したりする言説に対する反発なので、積極的に《投票するな》と言っているとは限らないわけだが、それにしてもである。

たしかに多数決で決めれば多数派が勝つに決まっている。
しかし、少数派の多くは弱者なのである。実力で戦ったら弱者が負けるに決まっているのも事実ではなかろうか。代表制はそこら辺をなんとかするためにあるんじゃないの?

《勝つ》ことと《生き延びる》こととはちょっと違う、ということはあるかもしれない。制度に見捨てられた弱者は、弱者なりの《実力》に、しばしば全面的に頼って生きており、代表制による《仕切り直し》みたいなものがその唯一の生命線を破壊することがある、とかそういうことである。

しかしそれは、制度を批判することによってなんとかすべきものなんじゃないのか。こういう発想が体制的なんだろうか。でも、毎度おなじ話ではあるが、そういう意味では日本では多くの人が《反体制的》であることが体制をかたちづくっている、ということになるのではなかろうか。
posted by 甲虫1 at 2009年09月03日 22:28 | Comment(2) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |
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