2009年04月29日

続・今ごろ気づいた

昨日の話が何につながるか。

それは、外山恒一氏がそれまでの文脈をぶっちぎって、「右翼的な言説がイヤなら国家そのものを否定するしかない」(「昼寝をすれば夜中に眠れないのはどういうわけだ|我々少数派」)とかいきなり言い出したりしたのは、「佐藤優現象」云々の文脈に気づいたからじゃないか、ということ。

「国家の存在を前提として左翼的なことを云ってる「生きさせろ」運動みたいなのはウンコだということだな」と外山氏は言う。「生きさせろ」運動って、まさにこの「佐藤優現象」の中心部というべき存在にされてしまっているようなんだよね……。

でも、僕としてはいまのところ、グローバリズムや新自由主義が個人を解放した、というストーリーで良いわけ? とか、下手な嫌味でも言ってみるしかないわけだけど……。
posted by 甲虫1 at 2009年04月29日 08:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2009年04月28日

いまごろ気づいた

いまごろ気づいたのだが(ちょっと不覚にも限度があると思う)、最近の「はてサ」のゴタゴタというのはほとんど金光翔氏(ブログは「私にも話させて」)の「<佐藤優現象>批判」(岩波書店の社員である氏は、これを書いたことで会社に嫌がらせを受けている)と、左翼雑誌であるはずなのにも関らずその佐藤優を重用する『週刊金曜日』に対する批判がその震源地になっているのであった。

要するにこれは、反グローバリズムの人民戦線を目指す運動が、結局はナショナリズムに堕しているという批判である。

これがあるために、妥協的に見える態度が軒並み批判の対象になってしまっている、ということなんだろう。これについてどう考えればいいだろうか。

メモだけしておこう。僕がナショナリズムに肯定的だとすれば、それは民主主義対自由主義という問題において、今は民主主義に味方すべき局面だ、と思っているから。自由主義というのは、弱者と少数者をルールで守ることだと理解している。でも、これが近年は逆手に取られっぱなしなのはあきらかだと思うので。
posted by 甲虫1 at 2009年04月28日 21:53 | Comment(10) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2009年04月24日

地虫の戯言

国家の否定、ってことに僕が敏感になるのは、人は個人である前にまず国民である、とかそういうことを言いたかったり考えてたりするからではないです。

国家の消滅というのがあるとしたら、それは積極的な出来事なんであって、今の世の中はそのまんまで、そこから国会だの裁判所だのだけが消えてなくなる、とかそういうことじゃないと思うんですよ。でも、「国家の否定」というと、どうしてもそうなっちゃうでしょう。だから、どこそこの誰が左翼のくせに警察を頼ったとか、そういう話が出てくる。

この件でやっぱり僕が思い出しちゃうのはイラクの日本人人質事件なんで、あのとき人質叩きをしていた人が何に怒ってたのかといえば、ああいう事態が国家を顕在化しちゃうことに対してなんですよね。

ボランティアと相互扶助と民営化で国家を縮小できる、みたいなビジョンがなりたたなくなっちゃうわけですよ、ああいうことがあると。

そのときの人質叩きのリーダーが、わが日本政府の首相だったわけでね。本来なら、ああいうとき国家は大喜びするはずだったんですよ。ついに俺の出番が来た! ってね。でもそうじゃなかった。あれはたまたまなんでしょうかね。そうかもしれないけど、僕は、あのとき80年前後から続いてきたある種の国家観のダメさが明らかになった、と思ってます。

よく言われることだけど、小さい政府は決して弱い政府じゃないんで、法律を作れるとかね、ほかにできない力を持っている以上政府は政府なんですよ。なのに肝だめしかなんかみたいに、俺はこんなに国家を否定しているぜ、みたいなことやっててもそれは国家の思う壺なんじゃないか、と思うんですよね。
posted by 甲虫1 at 2009年04月24日 22:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2009年04月22日

このひとも「ふつう」のひと?

※リンクがおかしかったので直しました[4/23 21:45ごろ]

承前
前回「 外山氏のこれは自己批判(自己嫌悪)なんですね」と書いたら、rnaさんからこういうブクマコメントが。
rna 全体は自己批判だけどその部分は論理的必然みたいに書いてるよーな。なにをもって彼が「右翼的」「左翼的」と言ってるのかわからんけど。 2009/04/21
児童拳銃 - rna のブックマーク - 2009年4月21日

うーむ。ちょっとまとめてみます。

あそこ(「昼寝をすれば夜中に眠れないのはどういうわけだ|我々少数派」)に至る外山氏のブログの記事は次のとおり。まず、外山氏が以下のように書く。
「朝鮮系日本人」「沖縄系日本人」「アイヌ系日本人」……といろいろいて、もちろん多数派の「日本系日本人」もいて、その「〜系」の部分ではなく後半の「日本人」の部分に着目して「日本人の団結」を構想するのが本来の意味でのナショナリズムであるはずだ。
[中略]
 在日朝鮮人にも、同化政策だと批判されようがどうしようが、二世・三世には強制的に日本国籍を押しつけられないものなのだろうか。もちろん日本人なんだから漢字は日本読みで。
政府断乎支持!!|我々少数派

;これに対して外山氏の友人の、左翼、というかアナーキストらしい「××君」(「誰なのか丸分かり」と書いてあるけど有名な人なの?)が反発し、メールのやり取りが始まる。外山氏は、自分のスタンスをこう語る。;

ぼくはとりあえずいつも「普通」のことを云っているつもりです。憲法9条などナンセンスで「普通に」軍隊を持つべきだ、といったようなことも含めて。もちろん、「普通」であることが必ずしも正しいとは限らないので、「普通は」国家というものは軍隊を持つものだといえばそうだけれどもこれこれの理由でそれでも反対だ、という話ならぼくも理解しますが、左派のほとんどは、「普通どうであるか」という基準線みたいなものが厳然として存在しているにもかかわらずまるでそんなものはないかのように主張を組み立てます。「たしかに普通そうだけれども……」という議論の順序がないから、それこそ「普通の」人たちと話が噛み合わなくなり、「またわけのわからないことを」的なバカ右翼側からの嘲笑に説得力を与えてしまっているようにぼくには見える。
「新・左翼の××君との対話|我々少数派」

そして、結論として、;
 つまり結局のところ、国民国家を前提として考えるならぼくの主張は大枠「正しい」はずだし、国民国家を否定する立場からすれば大枠「間違っている」に決まっているわけです。
 で、国民国家を否定する、という立場はそれはそれで成立するし、ぼく自身、かつて長いことそうだったわけですが、しかしグローバリズムに抵抗するという最重要課題(とぼくは考えている。ぼくが今ムカついていることのほとんどすべての原因がどうもグローバリズムにあるようだから)には、国民国家を肯定する立場からしか勝算はないと思い、転向したのです。
「新・左翼の××君との対話|我々少数派」
ということになる。

■さて、民族と国民は違うのだから在日も日本国民になればいいじゃないかとか、国家は軍隊を持つのが普通だ、というのが「あんまりヒドいこと」「アホみたいな右翼的言説」なのだろうか? 

これらの主張に難点があるとすれば、それは「右翼的」とかそういうことより非現実的だからだろう。
日本国は在日の人たちを帰化させることにそんなに熱心じゃなかったのだろうし、憲法がどうだろうと軍事力をもっている。
要するに今の権力というのはひたすら惰性に流されているのであって、よくも悪くもなにかの原理で動いているわけではない。

そんな中で、自分が権力者でもないのに、民族性を保ったまま帰化した在日とともに「日本人の団結」を作ることを構想したり、9条を廃止して軍隊を持とうとしたりするというのは、ほぼナンセンスだろう。

僕がダメだと感じるのはこの具体性のなさである。そもそも過激な思想家が「普通」ってどうよ、というのが、最大の問題のような気がする。
posted by 甲虫1 at 2009年04月22日 23:03 | Comment(2) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2009年04月21日

右翼へ一直線?

外山恒一氏。:
とにかく、やはり国家の存在を認めるかどうかってことなんだな。
 認めたら右翼的な結論に向かって一直線になっちゃうし、右翼的な言説がイヤなら国家そのものを否定するしかない。
 少なくとも、国家の存在を前提として左翼的なことを云ってる「生きさせろ」運動みたいなのはウンコだということだな。
昼寝をすれば夜中に眠れないのはどういうわけだ|我々少数派
あー、ダメだこりゃ。
人は必ず死ぬのだから人生には意味が無い、なんて言ってるのとおなじ。

そういえば民主主義は必然的にスターリニズムとファシズムを産む、とか言ってた人もいたな。それは正しいのかもしれないが、すべての必然性が現実化することを考えるなんて、いったいあんた何百年生きる気だよ、と言いたくなってくるよ。別にスターリニズムとファシズムさえ無ければこの世に悪いことは一つもない、ってわけじゃないんだから。

――などと書いていたら、ああ、外山氏のこれは自己批判(自己嫌悪)なんですね、失礼しました。あとでゆっくり読みます。
posted by 甲虫1 at 2009年04月21日 09:28 | Comment(1) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2009年04月20日

みんな生きている?

「社会の一体感のために子を生み育てているのではない」その通り。だから、赤木氏は状況を正しく指摘している。国のために戦う男はタバコを吸おうがシャブを打とうがインドシナで女を買おうが大陸で女を●そうが、国のために戦っている限り無問題だった。その実情は戦後も暫し変わらないので、プロジェクトXの陰には無数の男女の悲喜と大陸浪漫があった。[以下略]
灰とダイヤモンド - 地を這う難破船

この発想が、なぜか僕には無かった。どうしてだろう?

「国のために戦う男は〜国のために戦っている限り無問題」というのは、「戦後も暫し」どころか今でもちょっと年嵩の人なら持っている感覚だろう。

ただし、「国のため」というのは現在では大した意味をもたない。むしろ“ちゃんと稼いでいる”か否かが問題になる。僕にはこの問題の方が重要だった。ちゃんと給料を手にしながら、つまりちゃんと個人的にも利益を得ながら、同時にそれが「国」(とかそれに類するもの)のために貢献していることになっているということが。これでは、たまたま“働けない”人間は同時に二つの物を失うことになってしまうのだから。

しかし、やはり何らかの変化があるのではあるのだろう。たとえば、いまでは昔よくあった愛国心の物語は無効になってしまった。普段は無能なものが「国のため」に命を捨てることによって英雄となるというストーリーは、もはや語られることはない。勝手に“自己実現”をなしとげたものが、別になにかの「ため」にもなっていないのにもかかわらず英雄として祭り上げられるという、見ようによってはかなりグロテスクな光景がふつうになっているのが現在なのである。

しかし、僕はこの情況を共同性の解体とは考えたことがなかった――というか、これを共同性の解体だと人々が考えていないこと自体が共同性を破壊している、と思っていたわけだし、なにより、それが実は解体や破壊というよりずっと昔からの日本人のあり方だったのだと思っていたのである。

いつもどおりこの「地を這う難破船」は僕には難解なのだが(これは文体のせいだろうか? 明快に書こうとしているのはすごくよくわかるんだけど……)、とりあえずこの文章では「社会の一体感」と「公共の利益」と「寛容」の三つが、重なり合いつつ区別または対立させられているのはわかるので、自分の認識はそう間違ってはいなかったという具合に都合よく解釈しておきたい。
posted by 甲虫1 at 2009年04月20日 20:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2009年04月18日

放言#2

あの、思うんだけど。

左翼仲間の過激な主張や行動に異議を唱える“穏健派”とか“慎重派”っていう人たちがいるよね。

でも、そういう人の思想のほうが、客観的に見て過激な方向にいっちゃってることが多いんじゃないだろうか。どっちかって言えば悪い意味で。

※さすがにこれじゃなにがなんだかわかんなくなるな。
つまり、暴力もコミュニケーションだ、ってことなんだけど……。
【直後に追記】

タグ:左翼
posted by 甲虫1 at 2009年04月18日 22:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2009年04月16日

勝ち取ることと許されること

なんか、流れが速すぎてぜんぜんついていけない……(<何のことだ)。
なので、いままで僕が書いてきたこととの関連で、ちょっと一般論を。

生きることは犯罪じゃない、というのは、80年前後を考えるキーワードにも使えますね。第三世界の貧しい人たちの生き血をすすって豊かに暮らしているわれわれはすべて犯罪者だ、というような(新)左翼的な糾弾に対して、そんなこと知ったことか、と生を肯定してみせたのが80年前後の若者文化だったわけです。そこには、大人たちから故なく裁かれてきた若者――団塊世代ですね――の復讐というニュアンスがあるんですね。

って、これはちょっとねじれてますよね。なんで「大人たち」と「左翼」が同一視されているのか? 今の日本の混乱のかなりの部分がここに根ざしているような気がするんですが、そこがすっきり分析できればなにも苦労しないわけで、今回も投げっぱなしで終わることにします(<なら初めから書くなよ……)。

posted by 甲虫1 at 2009年04月16日 22:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2009年04月12日

体制的市民主義者

気になっていたことに一つの整理を与えてくれたと思った。“右翼”と“極右”を分けて、後者に新しい意味を与えている。“極右”とは「体制的市民主義者」のこと。筆者氏は文中で「彼ら」と呼ぶ。

こういう存在は最近ずっと注目されてきたわけだが、いままでは、それを“右傾化”と呼んでしまいがちだった。それは間違っていないとは思うのだが、結局その言いかただと、その暴力性・違法性みたいなものの批判になりがちになる。それだと、じゃあ合法的に、おとなしくやってればいいのか、ということになってしまう。彼らを批判するものに対して“どうせ彼らは無力な存在にすぎないのだから、過大視して騒ぎ立てるほうが有害だ”という反論が常に出てくるのだ。真に危険なのは“彼らを批判・克服し行動せよ”と呼びかけて登場する何者かだ、というわけだ。

上の記事で取り上げられている動画とそこに収められている事件(ちなみに僕は観ていない)は、そのへんを問い直すきっかけになったわけである。
タグ:右翼
posted by 甲虫1 at 2009年04月12日 20:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2009年04月08日

サバルタンは語る

言及先がすごい。「サヴァルタン[ママ]が語り得ないならば、語れるように教育すればよい」そうである(「アクティブインタビューか、識字教育か? | Theoretical Sociology」)。

――って、それ……。

まあ、こういう人も「サバルタン」の中に入れておくと良いかもしれない。
(というか、そういう話をしていた人がいたような気もする)。
posted by 甲虫1 at 2009年04月08日 20:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2009年04月02日

憲法を真に受ける。

な、なんじゃこりゃー、と思ったけど、考えてみれば日本国憲法って別に九条だけじゃないよね。
(追記:別に九条が嫌いなわけじゃないです)。
どんだけ続くんだろう、とは思うけど……。

(さらに追記:ブログランキングのカテゴリーが【スポーツ】なのに気づいた。たぶんわざとなんだろうな……。なんというか……)。
posted by 甲虫1 at 2009年04月02日 22:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。