2009年03月26日

「闘わないことが闘い」

前回の記事(甲虫ブログ: 壁の卵、卵の壁。)のブクマコメントで、horai551さんという方から外山恒一の昔の文章を教えていただいた。
その中で外山氏はこう言っている。:
彼ら30代論客たちの青年期は、云わば「闘わないこと」が「闘い」であり得た特殊な、稀有な時代だった。
(「論じる気がありません」(Internet Archive)。
:ここで言われている「30代論客」というのは、いわゆる新人類世代の「宮台真司とその周辺」の文化人たちのことだ。この「30代論客」たちが、たまたま彼らの置かれた特殊な状況を「一般化・普遍化する誤り」によって、より若い世代の政治的「闘争」を抑圧していることを外山氏は批判するのである。

つまりこれは“非政治的政治性”を肯定的に捉えることで“真の政治性”を獲得したとみずから信じる者が、政治的なものが政治的な形態を取らざるを得ないというそもそもあたりまえのありかたを非難攻撃するという、今も続くどうしようもない状況を論じた文章なのである。

この文章を、外山氏が最近ブログで東浩紀について書いていることと接続すると、今の言論状況の一側面を鮮明に浮かび上がらせることができると思う。

外山氏は、東氏について次のように言う。:
 以前もどこかで書いているだろうが、私は生物学的には同世代の東に、まったく同世代性を感じることができない。端的にそれは、東の経歴にブルーハーツ的なものの影がまったく感じられない(おそらく事実としてブルーハーツ体験がないのだろう)ということである。
『動物化する世界の中で』|我々少数派
東に限らず、60年代後半から70年代前半に生まれた、生物学的には私と同世代の、論壇で活躍する論者たちのほとんどが、東のような、早熟でありすぎたために同時代のムーブメントに反応できず前時代のムーブメント(80年代初頭のポストモダン言説)に反応して自己形成してしまった、同世代の中でもかなり特殊な部類なのである。
同上
この分析は、たとえば「「メタ国家論とサブカル(チャー)」鈴木謙介×萱野稔人×東浩紀‐ニコニコ動画(ββ)」における、東氏と鈴木氏の態度がどこから出てくるのかを、かなりわかりやすく示すものだと思う。つまり、一人は若き日の“背伸び”によって、もう一人は“勉強”によって、80年代初期の特殊な政治観を身に付けてしまっているのだ。

      ★

ただ、ひとつ言っておくと、この外山氏の過去と現在の二つの文章は、共に世代論的な感覚に頼りすぎていると思う。
なにより、具体的な政治にコミットしないことが真の意味での「闘争」となりうる、という発想は、いわゆる「戦後文学批判」に由来するものだろう。

「戦後」を特権的な正義とみなすものに対して、ではあなた方は戦時中はどこで何をしていたのか、あなたがたも間接的・消極的だったかもしれないが戦争に協力していたのではないか、ならば言い訳などせず“沈黙”している小林秀雄などのほうがよほど立派ではないのか、と「戦後文学批判」は問うた。

この発想が“常識”であるかのように捕えられるようになったのは、そもそも全共闘世代からだと思うのだが、そうすると外山氏の言う全共闘世代と新人類世代の世代間対立云々というのは話が合わなくなってしまう。むしろ全共闘に内在する二つの側面の一方が勝利したのが「80年代初頭」なのではないかと思うのである。
posted by 甲虫1 at 2009年03月26日 23:38 | Comment(3) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2009年03月21日

壁の卵、卵の壁。

「非政治的なものの政治性」という言い回しは、最近僕が見る範囲では批判的に使われていることが多いような気がする。
それはたとえば「自称中立」とかと同じで、もともとイデオロギー(観念)であるにもかかわらず現在の体制にによって現実化されているためにあたかも自然であるかのように思われてしまっているものを、いや、実はそうではないのだ、と指し示すときに用いられる言葉のひとつとなっているのだ。

でもある時期まで、これはまったく逆だったと思う。「非政治的なもの」のもつ「政治性」は、いわゆる「政治」が、現実に存在する対立を覆い隠す役割を果たしてしまっているときに、あえてそれに背を向けてディテールに固執することによって抑圧された構造を暴き出す、といった身ぶりを肯定的に語るときに見出されるものだったのである。

このような転換がなぜ必要だったかを知っているか、というか、そもそもそのような転換が存在したということを意識しているかしていないか、というのが、WEB上のさまざまな論争における論者たちのポジションを見極めるひとつの目安となるのだと思う。
posted by 甲虫1 at 2009年03月21日 21:54 | Comment(0) | TrackBack(1) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2009年03月17日

日本人が共同体主義的だとか簡単にいうのは……

あのですね、日本人が共同体主義的だとか簡単にいうのはどうかと思うんですよ。たとえば、前にもちょっとリンクしたけどこの記事とか参考になると思うんです。特に「メモ3」のところ。
[前略]日本人は常に相対的に「より外側の」共同性を気にしているような気がする。それゆえに、対立を表面化することができない。[以下略]
この「より外側の」って部分は、普通の日本人論では「上」とか「上位」と言われることが多いのだと思いますが、どっちにしろ、そこでは同レベルの人間同士が共同性を形作ることが抑圧されている、という点では同じです。

実は、日本がこういう国だというのは、昔から欧米には知られていたんだと思うんですよ。
ニーチェの『善悪の彼岸』のなかにも「日本の貴族」なるものが登場する部分があるんですね。そしてそれは、古代ローマ人(ゲルマン人だったかな?)と等値されている。要するに“神を持たない文明人”という意味だと思うんですが。

そうか、共同体を成立させるのは“神”なのか、ということなんですが、“神”による“去勢”が個人主義のもとになる主体を作り上げる、というのはもう教科書的な話なので、僕には特に気の利いたことは言えません。

ただ、ひとつだけ指摘しておきたいのは“視線”の問題。いわゆるフェイス・トゥ・フェイスの関係が大事だと僕は思うのですが(もちろん僕も日本人なので、個人的にはそういうのは嫌ですが)、それは、それが抽象的な「「より外側の」共同性」だの「上位」の意思だのを壊す可能性があるからです。

繊細な人たちが怖がる「共同体の同調圧力」というのは、その成員がお互いを「より外側」や「上位」から見た共同体の部品だとしか考えていないから発生するわけで、そこから逃れるためにお互いの視線から逃れる、というのははっきり逆効果だと思うんですけどね。(未完

【参考】甲虫ブログ: 日本と力
posted by 甲虫1 at 2009年03月17日 23:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2009年03月13日

誰か読んで!

雅子さまと「新型うつ」 (朝日新書)
香山 リカ
朝日新聞出版
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どうなんでしょう。
香山氏にはこんな著書もありますが……

「私はうつ」と言いたがる人たち (PHP新書)
香山 リカ
PHP研究所
売り上げランキング: 13943

これ、ちょっとどうかなと思うタイトルですが、Amazon の書評を見るとわりとまともな本のようにもみえます。

「病気」の位置付けによるすったもんだは不登校やひきこもりにもおおいに関係があるので、気になります。

自分で読め、と言われるかもしれませんが、香山氏、うつ病、(心の)病気の社会的扱われ方、のそれぞれについて、冷静に判断できる知識と心の余裕がないんですよね……。
posted by 甲虫1 at 2009年03月13日 22:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |
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