2008年10月29日

ある認識

呉智英氏の「「【コラム・断】職業に「貴賤」あり」コラむ‐断ニュース:イザ!」について。

ふつうに考えたら、「職業に貴賎はある」と“あえて”言うときには、次のようなことを含意するはず。

《人は職業によって差別され、苦しみ傷つくことがある。
そのとき、タテマエやら理想やらの「職業に貴賎はない」という言葉を、その人が聞かされ、それを信じるとしたら、その傷や苦しみは癒されるのか。
けっきょくそれは、その人が「心」のなかに背負い込むことになるだけはないのか。
それよりみずからを「賎しい」ものとした社会そのものを憎み、否定することが許される方が、むしろそのひとにとって真に癒しとなりうるのではないか……?》

わかると思う。
(なんでもいいけどたとえば)「はてなサヨク」の“内ゲバ”の原因の多くは、こういうことを巡る見解の相違なのだ。

今の呉智英氏は、たしかに抜け殻にすぎないかもしれないが、こういう、普通は状況論に押し流されがちな原理的問題に、一度は迫ったことのある人だというのが、彼がいまだに参照される原因となっていると思う。



タグ:呉智英
posted by 甲虫1 at 2008年10月29日 22:59 | Comment(2) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2008年10月26日

世情。

なんと言っていいかわからないが、いろいろ気になるので。
最初にブクマしてるのが「(元)登校拒否系」の常野氏だっていうのも。
    ****
もっと大事なことはあるだろうけど、ひとつ気がついたのは、80年代初めの時点では、こういう声を拾い上げるのが一般マスコミではなく、深夜放送であり、そのDJをやってる“テレビに出ない(でもすごい売れてる)フォーク歌手”になっている、ということ。
社会問題が「サブカルチャー」扱いされる今日は、この時すでに始まっていたということだろう。
    ****

あと、これ↑も今日たまたま読んだ。ちょっと関連があると思うので並べておくことにする(やはり東氏にはいらだちを感じるのだが……)。

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posted by 甲虫1 at 2008年10月26日 22:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2008年10月25日

「王道進行」と唯物論

……と、こんな感じで、「王道進行」、すなわちW△7→X7→Vm7→Ym――CメジャーおよびAマイナー(←ほんとはここが重要だったよ!)だとF△7→G7→Em7→Am(7thを抜きにすると「F―G―Em―Am」。ちなみに2chでは2002年にはこんなスレが……)になる――についていろいろ書いてきました。
しかし、僕の言ってることには、抜けている部分というか、きちんと語られていないていないことがありました。それはこういうことです。

この進行について(まあ、ほかの何についてでもいいのですが)語るとき、
  1. このコード進行そのもののもつ性質――「無限の可能性」やら特有の美しさや限界。たとえばメジャーかマイナーかわからないこと、メジャーだとしたら主和音であるはずのCがちっとも出てこないこと、でもFをDmの代理だとすると四度進行の規則にはしたがっていること、等々――と、
  2. このコード進行がJ-POP界の中で果たしてきた役割や意味
という、二つの層を区別することができるわけです。
で、前者(1.)については、たとえば小室哲哉や山下邦彦がいろいろなことを教えてくれるかもしれない。でも後者(2.)については、たしかにあんまり「きちんと語」られてこなかったと、やっぱり言ってもいいでしょう(「カノンコード」の陰に隠れていたのかも……)。
ここは、たしかに音極道氏の功績だと思います。ここまでやられたら、もう意識せずに曲を聴くのは不可能でしょう。もちろん、細かい歴史的経緯なんかについてはこれから明らかにされていくべきと思います(僕としては、「R&Bブーム」にひとつの切断を見るKGV氏の意見に説得力を感じますね。そのあたりで“売れ線”と“ほんとにやりたいこと”のあいだのせめぎあいの緊張感が途切れてしまったのではないかと)。

で、ここで肝心なのは、後者(2.)は前者(1.)に依存するのですが、かといって前者(1.)から後者(2.)が必然的に出てくるわけではない、ということです。
この「王道進行」に“無限の可能性”を見ることも、“依存”とか“形骸化”“ワンパターン”だのといった退廃を読み取るのも、どっちも正しいわけです。
あるものそれ自体の性質とそれが置かれる文脈による機能とはイコールではない、ということ。そして、同じ一つのものが、同時に二つ以上の文脈に置かれることがあるということです。
そしてこれは、このコード進行そのものの原理でもあるわけです。一つのコードが、複数のキー・音階(旋法?)に同時に属する場合がある、ということです。個物は何らかの原因の産物かもしれませんが、ほかの何かに対しての原因でありうる。そしてそうなった時点では、もう個物をそれを産み出した原因に還元することは難しくなってしまうわけです。

実は、「世界という手品にタネはない」で、挙げたありがちな議論に多くの人が陥ってしまう理由のほとんどが、この二重性を無視することにあります。たとえば“邦楽はすべて洋楽のパクリだ”みたいなたぐいの極論がなぜ出てくるのかといえば、それは、楽曲をコード進行やアレンジに、作品を作者に、作者を国家に還元してしまう発想に基づいているからです。「パクリ」議論の多くが不毛なのはここに由来します。それは複雑な現実を「そもそも」とか「もともと」で割り切ってしまう。時にはそれは必要なことですが(特定の原理に従っているだけのものの個別の事情を考えに入れるとかえってややこしい場合もある)、常にそうできるわけではないし、そうすべきでない場合も多いでしょう。

で、僕はまえから、この現代的なコード進行の原理と東浩紀のデリダ論とは“同じ”だと思っていて、彼の最初の本と山下邦彦の著作を結びつけて考えようとしてきたのですが(山下氏の本には、柄谷行人の引用とかが普通に出てきます)、その後の東氏の展開を見ると残念な部分もあります。ただ、その東氏の方向性そのものも、この二重性にきちんと向かい合った結果だというのはわかるので、微妙な気分です。


あ、ちなみに僕は、「音極道茶室: YouTubeで見る "J-POP王道コード進行" の歴史」で批判的に言及されている倖田來未やGIRL NEXT DOORの曲を聴いても別にひどいともなんとも感じられず、それどころかこれらに「王道進行」が使われているか否かさえわかりませんでした。ちょっとガックリ来たところでおしまいにします。

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posted by 甲虫1 at 2008年10月25日 16:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2008年10月21日

脱帽。

いろいろいらんことを書いてはみたが(その1その2その3)、Webには「わかってる人」がけっこうたくさんいることもわかったのだった。
コード進行を意識して曲を聴いてるとか、信じられんような人がこんなにいるとは(僕はぜんぜんダメです)。しかも意外な人が……。
posted by 甲虫1 at 2008年10月21日 22:25 | Comment(0) | TrackBack(1) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2008年10月19日

続・F―G―Em―Amのはなし

昨日の記事(「甲虫ブログ: F―G―Em―Amのはなし」)ですが、ちょっと不用意な書きかただったかなという気もするので注記しておくと、別に元記事(「JPOPサウンドの核心部分が、実は1つのコード進行で出来ていた、という話 - 音極道 Music Hacks」)の筆者(兼パフォーマー)の音極道さんを批判したり揶揄したりする意図はまったくないです。

ただ、音極道さんの元記事にある「これおそらく多くのミュージシャンが薄々気づいていたんだろうけど、誰もきちんと語ったことの無い話題」だというのは、結果的に事実と異なってしまっている、ということです(「きちんと」かどうかということで争うことはできるかもしれませんが……)。

まあ小室哲哉氏はアーティストなので感覚的な言いかたしかしない(制度的にそれしかできないはず)からしょうがないですが、山下邦彦氏の本(『楕円とガイコツ』)はまさに「メジャーとマイナーの中間を漂う浮遊感」こそを主題にしています(もちろん「戦メリ」にも言及されています。彼は坂本龍一の人ですから)。ただ、なぜかそれが音極道さんのところまで伝わらない、という状況があるわけです。僕がその前の記事(「甲虫ブログ: 世界という手品にタネはない」)で批判したかったのは、そういう現実(少なくともその一部)です。

あと、こまかいことをいくつか。
『楕円とガイコツ』は、それ以前の著書に対する“自己批判”として書かれているため、文脈を知らないと理解しづらいものになっていると思います(それがこの混乱の原因のひとつになっていると思います)。
で、この本のなかで、F―G―Em―Amは、順序を変えても問題にならない(ドミナントがないから)というようなことが言われています(僕はミュージシャンではないので、理解に限界があるのですが……)。小室哲哉氏がこの進行をあまり使ってないように見えるとしたら、そのせいもあるかと思います。

それと、これはわかっている人にはあたりまえなんだろうけどわからない人にはわからないところで、いわゆる「カノンコード」とこの「F―G―Em―Am」、そして「枯葉」のコード進行(これがU-Xでしたっけ?)は全然別、というか互いに対立さえするもののはずですよね?(というか「F―G―Em―Am」が残り二つの対立に干渉しない、という感じかな?)。でも、けっこう多くの人が「ああ、あれね」みたいな感じで、これらを混同している。
つまり、必要なのは煽りじゃなくて地図です。僕のようななんとなくわかっているだけのギャラリーを巻き込む共通理解の場をちょっとづづでも作っていくことが大事なのだと思います(ただ、それが言語化できない“感性”を疎外してしまう、とかいう問題もあるわけで、悩ましいところなのですが……)。
posted by 甲虫1 at 2008年10月19日 22:40 | Comment(0) | TrackBack(1) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2008年10月18日

F―G―Em―Amのはなし

えーと、おととい書いたJPOPサウンドの核心部分が、実は1つのコード進行で出来ていた、という話 - 音極道 Music Hacks」(ニコニコ動画-前編後編)のことだけど、なにか参考になるかと思い、山下邦彦の『楕円とガイコツ―「小室哲哉の自意識」×「坂本龍一の無意識」』をのぞいてみたところ、その本の第4部第6節が「「F―G―Em―Amの動きは僕にとって無限の可能性を秘めた響きなんだ」(小室)」という、そのまんまのタイトルじゃないですか!
そしてこのフレーズは、「(小室)」とあるとおり、小室哲哉自身が「1985年から2年間、『新譜ジャーナル』」で連載していたキーボード講座のなかにあったものだという。1985・6年ごろですよ!
なんというか、非常にげんなりします。僕は何をやってたんでしょうか。
というか、みんなもっと他人の話を聞くべきだと思います。20年以上前にミュージシャン自身が告白してんですから……。

ちなみに『楕円とガイコツ』は品切れみたいで、Amazonの中古で一万以上の値が付いています(!)。
新刊の『坂本龍一の音楽』は山下理論の集大成みたいですが、こっちは定価が一万円……。


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★リンクミス修正(10/19 07:10ごろ)



posted by 甲虫1 at 2008年10月18日 12:28 | Comment(0) | TrackBack(3) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2008年10月16日

世界という手品にタネはない

日本人の好きなコード進行として、いわゆる「カノンコード」(「大逆循環」ともいうらしい。T→X→Ym→Vmのこと。キーがCだとC→G→Am→Emになる)がよく話題に上るが、これはサビにおけるW△7→X7→Vm7→Ym(CだとF△7→G7→Em7→Amになる)の話。これはたしかに僕もなんとなくしか意識できていなかった。

それはいいのだが、ニコニコ動画やはてブのコメントがこの種の話題になると必ず出てくるパターンで埋まっているのがげんなりする。

そもそも「コード進行」というもの自体が楽器をやらない人にとっては魔法みたいなものなので、あの曲とこの曲が同じコード進行だ、といわれると、種明かしされたような、がっかりした気分になるものだ。
あとは雪崩式。どいつもこいつも「独創性」のない「コピー」と「パクリ」ばかりだ、いや人間はすべて「パブロフの犬」にすぎないのだからこれさえ使えばだれでもヒット曲が書ける、まともに音楽教育を受けてないやつらばかりが曲を作っているからこんなことになる(この最後のは僕は今回はじめて意識したけど、考えてみると非常にありがち)、等々。
これに「最近の」「日本の」「(世間で)売れている」○○はダメだ、というのが加わるからさらに悲惨なことに……。

まあ大きく分けて「独創性(天才)信仰」「理論(技術)信仰」「堕落史観」「大衆蔑視」ぐらいになると思うんだけど、芸術についてちょっと理論的(技術的)な話をすると、すぐこうなってしまう。自分の嫌いなやつを叩く道具にしてしまうのだ。

ここから離れて現実を理解しようとするなら、以下の二冊がおすすめ。
特に山下邦彦は、もっと知られていい人だと思う。


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【参照】(10/18追加)
ちょっと追加情報。
甲虫ブログ: F―G―Em―Amのはなし
あと、まえにも似たようなことを書いている(ただし対象は「絵」)。
甲虫ブログ: マンガとデッサンの関係
甲虫ブログ: <ダメ絵>?
あと、これも微妙に関連。
甲虫ブログ: 筒井康隆とサブカルチャー
★リンク修正(10/19 07:03ごろ)




posted by 甲虫1 at 2008年10月16日 22:11 | Comment(0) | TrackBack(3) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2008年10月13日

筒井康隆とサブカルチャー

筒井康隆は、一人の作家というより、むしろ一つの文化圏として捉えたほうがいいと思う。

たとえば呉智英は筒井について一般的なことしか語っていないはずだが(つまり特に思い入れはないと思われるが)、彼の文筆活動のすべてが、極めて筒井康隆的なものであるということに僕は最近気づいた。

その点で、筒井の小説の文学的価値を評価しようとした文芸評論家を名乗りはじめた時期の東浩紀の試みは、いささか倒錯していたといわざるをえない。それはマイナーなものでメジャーなものを意味づけようとすることだから(でも他にどうできたかと言われると弱い。文化にはこの種の巨大な“暗黒大陸”が無数に存在するし、それに光を当てる“需要”がそもそもない)。
posted by 甲虫1 at 2008年10月13日 21:28 | Comment(6) | TrackBack(1) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2008年10月08日

時勢。

ここ何年かで何が変わったかって、それはたとえば大塚英志のような人が安心して左翼になれちゃうような時代になったということであって、でもどうもそういうことに対する皮膚感覚の如きものに個人差がありまくることが、多くのモメゴトの主な理由になっているような気がする今日この頃(縦読みではない)。
posted by 甲虫1 at 2008年10月08日 23:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |
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