2008年08月30日

公的なものについてのメモ

大塚×東の対談本の書評。

東浩紀はこんなひとになってたのかー(知ってたけど)。
もちろん僕はどちらかといえば東氏には反対。というか、われわれはお金を使ったりもらったりしてるし、法律をまもったり、言葉をしゃべったりもしている。そういうのは「公的なもの」には入らないのだろうか。

リバタリアン的な社会を実現するには、リバタリアンの理想とは逆に巨大な政府が必要になってくる、という話を前にどっかで読んだ※。価値判断を廃すれば廃するほど、その「中立」にお金が掛かってくる。じゃあその「中立」にならそれだけお金を掛けてよい、という判断それ自体は「中立」でいられるのか? ってことが問題になってくるんじゃないだろうか(内藤朝雄氏の議論にたいする僕の疑問の中心はここらへんにある)。

ところで、公的なものの実現する場所を社会と言うわけだが、その「社会」には2つの種類がある、という考えかたが昔からあるみたいだ。
僕になじみがあるのは、柄谷行人の『探究〈1〉』『探究〈2〉』(なぜかこの本のタイトルは「探求」と誤記されることのほうが多い)だ。そこでは「社会」と「共同体」が区別されている。
だけどこの区別って、あんまりほりさげられないまま放置されてる印象が僕にはある。だいたい、東浩紀氏にしてからが、柄谷の「病」はわかるけど『探究』の健康さは理解しがたい、とかいってたし。でもだとすると、東氏のいまの立場には必然性があることになる。
※【8/31 0:18ごろ追記】これだな。「リバタリアンが導出する「大きな政府」 - on the ground



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posted by 甲虫1 at 2008年08月30日 22:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2008年08月28日

勉強を強制される話

呉智英先生に聞いてみたいこと。<追記あり> - gurugurianの日記」の追記部分から、先生のお言葉を孫引きする。;
姓について、もうひとつ言っておかなければならない。かつては認められにくかった民族名(金、朴、李などの)が、今では認められるようになっている。それはいいのだが、これを朝鮮音で読むように強制することには反対しないわけにはいかない。日本人が朝鮮語の勉強を強制される理由はないからだ。

うわ、これはいいっすね! もちろん「朝鮮音で読むように強制することには反対しないわけにはいかない」ではなくて、「朝鮮語の勉強を強制される理由はないからだ」のほう。このさい「朝鮮語(音)」は関係ないです。つまり、呉智英先生は、字を読む(読めるようになる)ってことが「勉強」の「強制」の産物だってことがちゃんとわかってるってこと! 《半端なわかりかただなー》とか、《自分たちが強制するのはいいけどされるのは嫌なんだなー》とかは言っちゃダメ!

――冗談はさておき、やはり僕は呉智英先生の《可能性》もダメさもここにあると思うんですよね。先生を含む団塊の世代って、なんか微妙に《字が読めない》ひとが多いような気がするのね。なんか永遠のマイノリティーっていうか(数は多いけど!)、自分の文化を持ててないような気がする。確かに気の毒ではあるんだけど、自業自得と言いたくもなるような……。
この件も、辞書にない読み方を増やすなよ、という主張だという解釈もできると思うんだけど、じゃあ新しい辞書を作ってやろう、とはけっして思わないんだな――とか考えるとなんかちょっと悲しくなってきますね。
posted by 甲虫1 at 2008年08月28日 22:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2008年08月24日

想像界=二者関係の時代

前に取り上げた内藤朝雄氏のブログの記事だが、その後すこし書き直されている。
「境界例」や「精神分析」といった精神医学用語が消え、代わりに「想像界」という言葉が登場している。

この「想像界」というのはけっこういいキーワードなのではないか。
斎藤環氏はあるところでこれを「二者関係」と言い換えている。これは単に専門用語を使いたくなかっただけだと思うが、そのように言い換えられるということは、いろいろな示唆をあたえてくれる。

たとえば、内藤氏は、彼のいう「想像界」を超えるものとして「ルールの世界」を持ち出す。けれどそこにあるのは「人を一人殺せば、死ぬまで刑務所にいる」というような絶対的な罰の世界である。これは被害と刑罰とを一対一で対応させようという発想だ。結局これはこれで立派な「二者関係」の理屈なのではないか。

想像界=二者関係の時代。誰かが得をすれば誰かが損をする。
穏当な「正解」を誰も望まない時代がやってきているのだろう。

もちろん、僕がここで書いていることは貧弱な連想ゲームにすぎない。
でも、それをもう少し続けてみようと思う。
posted by 甲虫1 at 2008年08月24日 23:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2008年08月16日

スタイルシートとかIEのバグとか

ずっとスタイルシートやHTMLをいじってます……。

昨日の記事を書き終わって、amazletツールでアマゾンのリンクを作って貼り付けたまでは良かったんですが、”ワイド版 風の谷のナウシカ7巻セット「トルメキア戦役バージョン」”という長い文字リンクが本文ブロックの壁を突き破ってしまい(半角文字でもないのに!)、右にあるサイドバーがカラム落ちするという惨事に。

あわてていろんな方法を試したんですがダメで、最終的にはブロックの親要素(というらしいです。この場合<div>タグで囲ってブロックにしてあるのでそれのこと)に横幅を設定してやる(「100%」とかの無意味なものでいいみたい。今回は95%とかちょっと小さめにしてみた)ことで、やっと無事ブロックの外枠で強制的に改行されるようになりました。やれやれ。

それで、いろいろ調べてみたんですが、Widows版のInternet Explorer 6には、いろんなバグがあるみたいで、中でも派手なのが「背景色が指定された要素内にフロートがあるときに要素内の文字が消える」というやつ(これも横幅を設定してやると直るようです)。これ、なんかどっかで見たな……と思ったらhttp://d.hatena.ne.jp/macska/みたいな、背景画像を設定した上にベタな色を乗っけてその上に文字がある――というデザインだと、文字は消えないけど色が一部抜けて背景画像が覗いて見えることがあるんですね。これも同じような問題でしょうね。

こういう作業は確かに疲れるんですが、ただある種の錯覚を晴らす効果はあると思うんですよ。
僕が想定しているのは、たとえば「人権はフィクションにすぎない」とかそういう考えかたです。これがスタイルシートとどう関係するかと言うと――

そのへんは、疲れたのでまた今度。



タグ:CSS
posted by 甲虫1 at 2008年08月16日 21:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2008年08月15日

ナウシカに友達がいない件

重要。
僕は前に「トリアージでも資源配分でもなんでもいいけど、それを一人で勝手にやっちゃいかんだろ」などと書いたけど、この二つを読んでそれを連想した。

あと関係ないけど、紙屋氏の文章を見て、まえに”「ロッキング・オン」文体”って「赤旗」の文体の隔世遺伝だよな、とか考えたことがあるのを思い出した。

なんか自分のことばっかり書いてるな。


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posted by 甲虫1 at 2008年08月15日 19:26 | Comment(0) | TrackBack(1) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2008年08月14日

都市20代男性問題

僕自身の考えとしてはグーグル・ストリートビューには問題があると思うし(というか、なんで気持ち悪いとか悪くないとかの感覚の問題になってんの?)、別に20代の男性に恨みはないけど(――ということにしとこう)、これはちょっとおもしろいというか重要な視点だと思う。

親と同居なので初めからプライバシーがない10代とか、他者に興味をもたれない・むしろもってほしい30代ではなく、20代こそがプライバシー(とそれへの侵害)に大きな関心を持つのだという。

なんでこれが気になるのかといえば、ひきこもりや不登校のことを連想させるから。
それらの当事者は、しばしば《ひきこもる権利》とか《学校に行かない自由》とかを求めていると思われている(まあ支援活動とかをやっているひとたちの中にはそういうことを主張している人もいるんだろうけど)。でも、それは、当事者の意識としても必ずしも精確じゃないし、そもそもそんな《自由》とか《権利》なんてものは存在しないだろう。それはべつに、教育や就労が誰も逃れることの許されない義務であるからではなく、普通に学校へ行って教育を受けたり働いて給料もらったりしたほうが得だからである。自分に不利な権利とかを守る意味はないはずなのだ。
《この社会は不幸になることも禁じられたディストピアなのか!》みたいな変な「文学的」世界観が、ここら辺のねじれから発生してしまう。でも、ここ何年かの社会的・政治的なできごとで明らかになった(と僕は思っている)ように、それこそが権力の思う壺なんだよね、おそらく日本では昔から。

で、上に紹介した記事で描かれている20代が、僕にはそういう《他者の介入を恐れる弱者》の姿と重なって見える、というわけ。でも僕としては、やっぱりグーグル・ストリートビューにはちょっと問題があると思うし…(以下ループ)。
posted by 甲虫1 at 2008年08月14日 21:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2008年08月13日

ブログデザインを変える話

スタイルシート(CSS)遊びのブログ」というところからSeeSaa可変幅-右サイドCSSをお借りしてきてデザインを変えてみた(もちろんいままでに合わせてちょっと改変してある)。

いまSeesaaでは幅が可変(ウィンドウに合わせて伸び縮みする)のデザインが用意されていないので、こういうものを配布してもらえるのは非常に助かる。

なぜSeesaaが提供を止めたのかといえば、可変幅のデザインだといわゆる「カラム落ち」(サイドバーやら、場合によっては本文がブロックごと画面の「下」に落ちてしまうこと)が多くなるからではないかと思う。デザインをいじったりするとよくこの現象に悩まされるが、それだけではなく、ブログパーツや大きい画像や動画などを貼り付けたり、さらには長いURLなどを表示させただけでも起こることがある(半角文字は切れ目がないと改行されない!)のだから非常に厄介だ(これにはいろいろ対処法はあるみたいだけど――CSSによる段組(マルチカラム)レイアウト講座 基礎編7長〜いURLによるカラム落ち、に対処する - Archivaなどを参照――)。

そういう問題があるのに、なぜ可変幅にこだわるのかと言えば、ウィンドウや文字の大きさは、見る人が決めるものだと思うから。インターネットっていうか、コンピューター文化っていうのはそういうところがいいんだと思うので。

以下、この件に関しての参考文献以上(あいかわらず尻切れトンボだな……)。
タグ:Seesaa CSS
posted by 甲虫1 at 2008年08月13日 22:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2008年08月12日

金魚と人魚と人面魚のあいだに

たけくまメモ : パンダとポニョ(3)」から引用。:

しかし、主人公の宗介はポニョを見て開口一番「あ、金魚だ」と言いますし、お母さんのリサも、保育園の友達も「可愛い金魚」と言います。このことから、私たち観客は、これは人間のような目鼻がついており、髪まで生えていてどうも金魚には見えないけど、そこは「マンガのウソ」というやつで、こう見えても金魚なのだろう。金魚に違いない。と、うっかり考えてしまいます。

それはともかく、「可愛い金魚」であるはずのポニョなのですが、映画に出てくるおトキばあさんだけは、ポニョを一目見て「おお嫌だ、人面魚じゃないか!」と叫んで毛嫌いするのです。これは、多くの人が驚いている『ポニョ』の重大なポイントです。

ここで、観客がうっすらと感じていた違和感は最初のピークを迎えるのです。そんなこと言っちゃって本当にいいのかと。それはあたかも、ミッキーマウスの映画の中で別の登場人物(実写)が現れ、「このネズミのバケモノ!」と言うようなものではないでしょうか。

マンガやアニメの世界にあっては、ネズミが人間みたいに服を着て二本足で歩き、庭付きの家に住んで犬を飼っていたとしても、それはそういうアニメだからであって、それを疑問に思ってはいけないお約束になっているわけです。そのお約束は、通常疑うことが許されません。疑ったが最後、作品世界が根本的に崩壊してしまうからです。


:それこそこの竹熊氏の文章の趣旨を「根本的に崩壊してしまう」ようなことを言うが、こういったファンタジーというか児童文学系統の作品では、非現実的な作中の出来事(たとえば妖精の存在とか)を肯定する主人公たち(多くは少年少女)と、それを認めようとしない人間たち(しばしば汚れた大人たちだとされる)との対立と齟齬がしばしば描かれるわけで、上記のようなこともそのひとつと言えないこともないと思う。
そして、そのような図式をはっきりと主題にしたのがサン=テグジュペリの『星の王子さま』であり、宮崎駿がサン=テグジュペリに強く傾倒していることはよく知られているわけである。

こういう、子供には大人とは違った世界がありそれは肯定されるべきだという考えかたは、現在では滅びつつあるだけでなく積極的に批判の対象になっていることは、前に取り上げたいくつかの『ポニョ』に対する否定的な評などをみてもわかることだ。その変化が良いことなのか悪いことなのかはわからないのだが、どうもこの対立の両側で、(ファシズムに代表される)全体主義への抵抗というのが隠れた主題になっているらしいことがちょっと気に掛かる。

――なんか、無意味にデカい話になって来そうなのでこの辺でやめておくことにする。



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posted by 甲虫1 at 2008年08月12日 22:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2008年08月09日

階級闘争史観?



えーと、自分の気に入らないなものは見ないようにすることにしているので(なかなか貫徹できないけど)、上の2記事で論じられているブログは見てないんだけど。(このブログに対しては、前に僕も間接的に批判的なことを書いたことがあります)。

当人がそれを想定しているかどうかは別として、「階級闘争史観」がフェミニズムや第3世界論のような、古典的な階級闘争論に対する批判だとされているものをも含むと考えれば、そんなに矛盾や難点はないし、非常にポピュラーな考えかたじゃないだろうかと思う。

要するに、世の中には不当な苦しみにあえぐ人がいて、そのひとたちを解放するための努力は、その中には含まれない全世界の人々も負うべきだ、という考え方を「階級闘争史観」と呼んで批判してるんでしょう。

問題は、これってかなり「反社会的」な考えだと思うんですが、なぜかそれが「体制的」思考になってるっていう……。

【追記(8/12)】
関連する記事を見つけたので、リンクを追加しておきます。

posted by 甲虫1 at 2008年08月09日 23:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2008年08月07日

いつもの後悔

えーと、ブクマなどを頂いておいて(ありがとうございます!)なんなのですが、前回の記事は、我ながらかなりひどいものだと思います。なぜあんなに短い文章の中に、矛盾と飛躍と勘違いがあんなにたくさんあるんだろうか!

そのなかでも一番の問題は、取り上げた記事(これはいいバカリベのサンプルですね - 過ぎ去ろうとしない過去)で言われてる「篤い信仰心」というのは、企業は社会のためにある、という考え方(もちろん、《だから社会は企業のために尽くさねばならない》というような話がくっついてくるわけですが)を指しているので、僕が書いたような「自由」そのものへの信仰とは別だ、ということです。

どうも自分の関心にひきつけすぎたようです。夜中に慌てて書くとろくなことがないですね。
もっと問題はたくさんあると思うのですが、とりあえずこんなところで。
posted by 甲虫1 at 2008年08月07日 22:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2008年08月05日

「自由」への「信仰心」の起源

言及先は読んでないけど、なんかこういう人いっぱいいるよね、という感じはわかる。

で、その「バカリベラリスト」の特徴の一つとして挙げられているのが「篤い信仰心」なんだけど、この「自由主義」への信仰については、スネに傷を持つ人って、けっこういるのではないか(※欄で言われている「かつての共産主義」と同様に)と思った。

共産主義者にとってのロシア革命に相当するものが、「自由主義」信者にも存在したような気がする。「ペレストロイカ」がそれではないだろうかと思う。

よく「○○だったから共産圏は崩壊した」とか、こともなげに語られていることがあって、僕はそれを見るたびにギョッとする。だってそうではないか。北朝鮮も中国も社会主義なのに未だ崩壊してはいない。一度成立した秩序が内部的な事情だけで崩壊するなどということはめったにあるものではないと思う。上からの「革命」であるペレストロイカがなければ、まだソ連が存在したとしてもそんなにおかしなことはないのではないか。

ところで、自由化によってロシアの経済は良くなったのだろうか。もし良くならなかったとしても、社会的な自由はそれ自体で価値なのだから、そのことが失敗として強くとがめられることがなかっただけなんじゃないか、とか普通レベルの調査能力のない僕は思う。そして「自由主義」信者には、自由化が社会主義から人々を解放した、というイメージだけが残った、というあんばいなんじゃないのかと。

まあ、いかがわしい意見ではあるけれど、最近このへんの時代のことを聞かないな、と思ったので。


参考:




posted by 甲虫1 at 2008年08月05日 23:09 | Comment(0) | TrackBack(1) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |
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