2008年03月20日

自由と弱者

現代において、国家権力による規制が「弱者を守る」という大義名分で行われることは多い。そしてそれはかならずしもタテマエではなく実際にも、純粋に「弱者」の要請に善意によって応えたものだったりして、反対者が想定するような「隠された意図」なんて大抵の場合は存在しない。なので、そのように作られた規制を批判するのは並大抵のことではない。その批判はしばしば「弱者」への攻撃だとみなされるのだから。

これが「68年以降」(それが固定化したのは80年代半ばだと思うけど)のアイロニーというやつである。貧乏でモテない貧弱なオタク青年が、かつて国家権力や資本家がそうされたように「強者」として糾弾されるという理不尽。

でも、ここで問題にしたいのはそのことじゃない。
そういう時代だということはとっくの昔からわかっているはずなのに(なんせもう30年も経ってる)、古典的な「自由」を楯にとって何か言うことに反権力のなんのといった意味づけをするのはどうかと思うのだ。;
この一連の流れの中で私をいらだたせるのは、「パンツ出している絵が不快だとか」正直どうでもいい個人的なヴィクトリア朝的な倫理観に基づいた個人的な心情*1や己のイデオロギーからくる奔放な性を生きるものへのルサンチマンを、この「児童ポルノ」の問題にかこつけてモロだしして恥じない人々の存在だ。
児童ポルノは奔放な少女への罰でもオタクの罪でもない 2008-03-20 - 捨身成仁日記 炎と激情の豆知識ブログ!
http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20080320#p1

すごくまじめな人だというのはわかるんだけど、「パンツ出している絵」が不快だっていうのは、とりあえず「ヴィクトリア朝的な倫理観」でも「個人的な心情」でもないと思う。
トラウマというものが事後的な意味付けの問題だというのは、フロイト自身が言っているはずだ。精神的な暴力が暴力として機能するときに、社会的なイメージがひとつの要素として介在することがあり、そのなかに「パンツ出している絵」が入ったってなんの不思議もない。こういうことはずいぶん前から言われてることのはずで、なぜそれを無視していいと思うのかがわからない。

だから規制は正しいとか、そんなことが言いたいわけじゃない。規制に反対するのに、「弱者」を敵にまわす必要があるのかということだ。かつての左翼たちは、「自由」なんて強者が弱者を搾取することを許すものに過ぎない、といったけど、その論理が、今度はこっちに向かって来ているのだ。
タグ:自由
posted by 甲虫1 at 2008年03月20日 22:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2008年03月17日

類と個

女にとって親にとってキモくない怖くないエロゲしか書くな、なんてのは、俺に俺の表現をするなと言ってるのと同じなんだよ。
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20080317#p3
「準児童ポルノ違法化」関連。なんか気になったので引用。
「女」や「親」は〈類〉なのに「俺」は〈個〉なんですね。
でも「俺」は〈男〉の一部なんじゃないんですか?

なにか、個であることが倫理的である、みたいな発想が、僕は最近ちょっと気になるようになってきたんですが……。


posted by 甲虫1 at 2008年03月17日 22:08 | Comment(2) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2008年03月16日

「内心と法」続き

昨日書いた記事だが、rna氏にブクマしてもらっている。
「行為じゃなくて内心まで規制してたっけ?」というコメント。
そう言われてみれば「内心」という言葉は単なる価値判断一般より大きな意味を持ってしまうので、不適切だったかもしれない。

法を正義や道徳と切り離すのが近代(あるいは自由な社会)の原則だ、とあまり強調しすぎるのはいろいろ問題がある、ということを言いたかったんだけど……(ちゃんと伝わってるとは思いますが)。

あと、「誰かに聞いたか、どっかで読んだ」という件は、いちおう心当たりを探してみたが見つからない。小室直樹氏か宮台真司氏に対する批判という文脈で言われていたような気がするのだけど。両氏は、たとえば「刑法には『人を殺してはならない』とは書いてない」みたいな議論をしているので。
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posted by 甲虫1 at 2008年03月16日 22:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2008年03月15日

内心と法

「準児童ポルノ違法化キャンペーン」が議論を呼んでいる(新聞社系のニュースサイトは消えることが多いようなので上記のまとめ記事にリンクしておく)。

この問題自体には直接には関係ないのだけれど、議論を見ていてちょっと思いついたことをメモ。

法と道徳は別、とか、個人の価値判断を裁くことはできない、っていうのは英米法の考え方で、ヨーロッパでは裁判所はしばしば積極的に価値判断を示す、と誰かに聞いたか、どっかで読んだような気がする。

今回、多くの人(僕が良識があると感じる人たち)が、「たとえそれがどんな《不道徳》なものであっても、国家が法律で個人の心の中を裁くのはおかしい」と言っているのだが、それはけっして普遍的なものではないかもしれないという可能性がある、ということ。

個人的には、「人に迷惑をかけなければ私が何を考えようが自由だ」などと言うよりも、「私はけっして不道徳ではない」とか「私のすることは正義に基づいている」と主張する方がいろんな意味で有意義だと思う。

うろおぼえでいいかげんなことを書いたかもしれないけど、今言わなければならないことのような気がしたので。
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posted by 甲虫1 at 2008年03月15日 22:09 | Comment(0) | TrackBack(1) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2008年03月02日

反自由って何?

正直言って、最近のこの「甲虫ブログ」の記事は、常野雄次郎氏をどう評価したらいいのか、ということが常に念頭にあって書かれたものだ。

常野氏の文章は、いっけん古臭い左翼のそれのように見える。
しかし、《関係者》以外はあまり気にしていないようだが、氏のブログのタイトルには「登校拒否」の文字がしっかりと入っている。氏の論理は、ひきこもりや不登校に陥っている真っ最中の人間には、妙にリアリティーのあるものなのだ(――というか、そういうことを実感するような出来事がさいきん実生活で起こって、それが前に書いた「社会・教育・自由」反映しているのだが……)。
この延長線上になにか有意義なものが生まれれば良いな、と思ったものだ。

しかし、上のリンクの「参考」の部分を見ると、それはやっぱり買いかぶりだったか、という気がする。

たしかに引用された斎藤環の言っていることは気持ち悪いのだが、だったらほかにどんな言いかたがあるのだろうか。
不登校がどうだかは知らないが、ひきこもりというのは人生のありうる選択のひとつでは決してない。それは選択の拒絶、すなわち死を意味する。医師である斎藤がそれを容認できないのはあたりまえなのだ。
(註:ひきこもりや不登校を否定するつもりはない。ただそれを主体としての合理的選択だとすることは、いったい誰の利益になるのかということだ。)

不可能な選択を、あたかも可能なように見せかけて人を欺くのは常野氏の批判してやまない「リベラル」のやり口ではないか。常野氏の「テラ豚丼」の記事に対して、ブクマでumeten氏が強く批判していたのが腑に落ちなかったのだが、どうやらその怒りが僕にも理解できたようだ。

■僕が何か見落としや勘違いをしているのかもしれないし、本筋でないところをとりあげるのはフェアではないような気もするのですが、このあたりを明確にせずに「登校拒否系」も反リベラルもないんじゃないかと思うので、とりあえず書いてみました。

posted by 甲虫1 at 2008年03月02日 16:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |
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