2008年01月27日

裏のウラは表


え〜と、左翼は90年代から規制緩和も民営化も普通に批判してましたが・・・。っていうかそういう改革が始まったのは90年代じゃなくて中曽根時代でしょ。電電公社をNTTにしたのも、国鉄を民営化したのも中曽根さんですよ。
しかし、こういうこと↓もあるのだった。 

この番組は、大衆に「無駄な公共事業」の存在を知らしめることに成功し、政治的にも大きな影響を与えた。元々公共事業批判は自民党の土建政治を批判するサヨクのロジックで、この番組の企画自体も筑紫哲也が朝日ジャーナルでやっていた企画がベースになっている。

……。「リベラル」のポジション(世間的な、あるいは自意識的な)が「左翼」から「右翼」に移行した、ってことでいいのかな? ややこしいんだけど……。
posted by 甲虫1 at 2008年01月27日 22:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2008年01月12日

承前

さて、年が明けてしまいました。
先日の記事に、chikiさんから再度のコメントをいただいているわけですが(反応が遅すぎですいません)、件の記事は僕の誤読もあって議論の下地にはなりにくいと思います。
■というか、そもそも僕には厳密な議論は能力的に無理です。僕が書く文章は、短くても辻褄が合ってないことが多い。まえのほうとうしろのほうが逆の主張をしてたりすることが往々にしてあります。とても他人様と議論などできるレベルではない。
■でも例の座談会(「ひきこもり」のリアルを知るために ―井出草平著『ひきこもりの社会学』刊行記念座談会 - 荻上式BLOG)を読んで、がっかりしたような気持ちになったのは事実ですし、それについて書かねば、と思いこんでしまってあんな記事を書いてしまったのも確かです。座談会がもっと多くの人の議論の種にされていれば僕は書かずにすんだでしょう。でも主な反響は発達障害関連の話ばかりだったわけです。
■で、改めてあの座談会の何が気になったのか考えてみると(コメントのお返事にも書きましたが)異物を排除する中流・郊外・核家族における学校化の問題、というやつです。これらが問題だというのは、本多勝一の『子供たちの復讐』などを見ればわかるとおり、もう30年ぐらい前から言われつづけていることであって、その後になされた改革や提言の多くはそのような視点が前提になっていると言ってそうまちがいはないだろうと思います。もちろん、これは社会の大きな流れ(「主流派の利益」という言いかたもできると思います)であって、それを止めることは困難ですし、改革には抵抗や失敗がつきものなので、あいかわらずそれが問題でありつづけていると考えること自体は正しいと思うわけですが……。
◆でも、たとえば斎藤環でも内藤朝雄でもいいですが、彼等の議論はある意味すごいニヒルなわけです。ひきこもりにしろいじめにしろ、その「原因」を問うことにはあまり意味がない、それよりもいまここにある悪循環を断ち切ることを考えよう、というわけでしょう。なぜそうなのかと考えると、やはりその種の議論(名前がないとやりにくいので、仮りに「画一性の悪」論とでもしておきますか)に対する反感とか絶望があると思います。この一種の回避戦略から正攻法に復帰するのであれば、それなりの工夫なり勝算なりがあるものと期待してしまうわけですが、あの座談会でそれが示されたようには、僕には見えなかった。
■そして、これは最初の記事を書いたときから気になっていたことですし、「中流で何が悪い」というタイトルをつけた理由でもあるのですが、この座談会には、なぜかひきこもりを経済問題や貧困問題とは結び付けまいという方向性が感じられます。でも貧困問題こそ、80年代から90年代前半までとは違った議論ができるベースになるものではないでしょうか。
◆≪「画一性の悪」論≫は80年ごろからある、と言いましたが、それが現在とちょっと違うのは、当時は「母親」と「受験」が、いわば二大悪役だったんですね(本多はそれとはちょっと違う視点を持っていたような気がしますが)。「大人の敷いたレール」に押しつぶされる少年少女、というイメージがあったんだと思います。でもその「レール」に乗ることは、こんにちむしろ一種の贅沢になりつつある。「豊かさか自由か」という選択肢が、かつてはあったと思うんですが、この10年ぐらいは、それが成り立たなくなってきているわけです。
「おせっかいな権力」というものに対して、たとえそれが「野垂れ死ぬ自由」であっても自由を選ぶ、みたいな話はもうできない。権力は、今や「放置する権力」として働いていて、「自由」はその道具としても機能することがわかってしまっている。そして、いま「今や」なんて書いてしまいましたが、じつは昔からそうだったんじゃないか、特に日本では、ということがようやく問題にできる環境ができあがりつつあるのに、また80年代に戻りますか? みたいなことです。
■なんか、このまえの記事の繰り返しみたいになってしまいましたが、あまり引きずるのもなんなのでいったん上げます。そもそもの話をすると、ここに書いたようなことはもともとの座談会とは関係ないともいえるわけで、あくまで僕のいまの関心からあの座談会を見たらこうなった、というような感じに観ていただけると助かります。
タグ:ひきこもり
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