2007年08月27日

新しい定義

ライトノベルの定義とはなにか、ということが話題になっているようだが、「ウパ日記 - ライトノベルの定義」(http://d.hatena.ne.jp/iris6462/20070825/1188003701)が、とてもウィトゲンシュタイン的(精確にはそのクリプキ的解釈らしい)な解決を示している、と安眠練炭氏が書いている。その特徴は、
  1. ライトノベルポイント(LP)の付値の対象になるのがレーベル・作家・イラストレーターで、追加効果としてコミック化・アニメ化・ブームなどが挙げられているが、当該作品の内容そのものは付値対象になっていない。
  2. LPが高ければライトノベルで低ければライトノベルではないが、ライトノベルであるかどうかを厳密に線引きするポイント数はない。
  3. 付値を行うのは各読者であって、人によって付値の基準が異なる。
一本足の蛸 - ラノベ界のウィトゲンシュタイン
というようなことらしい。
ライトノベル固有の問題としては、このなかの1番目が重要で、ライトノベルという区分そのものの特徴(「文芸上の「ジャンル」ではない」)を良く示しているし、3番目は議論が紛糾する原因を明らかにしている。
ということは、この「定義」の普遍性――ウィトゲンシュタインと似たところ――は2番目の「LP」というアイデア、つまり、対象の各要素にポイントを付けていき、それらを合算した値があるレベルを超えると大きいほど、対象を誰が見ても(たとえば)ライトノベルとみなすみなしやすくなる、という考え方だ。
僕はウィトゲンシュタインもクリプキもちゃんと読んだことはないが、こういうのはたしか「家族的類似性」とか言うんじゃなかったろうか?
ただ、それにポイントをつけて具体性を持たせるのは面白いと思う。
すぐに何に使えるというわけではないだろうけど、とりあえず忘れないうちにメモ。

★元記事の趣旨とズレた表現を直しました。ちょっと見づらいですが(9月2日)。

2007年08月26日

『リアル鬼ごっこ』の文章がすごい(悪い意味で)というのは、なんとなく前から知っていた。


山田悠介『リアル鬼ごっこ』の文章がすごい(悪い意味で)というのは、なんとなく前から知っていた。改訂版ではなく単行本を読まねばならない、ということも。
SFやミステリ、ライトノベルの読者の一部には、そういう怪作や珍作を喜ぶような土壌があるらしい。

でもそれが実際どんなものであるかについては、そんなに興味が湧かなかった。そういう作品は、超傑作であるか単なる駄作か、大抵どちらかに別れるものだと思う。傑作なのであればそのような文体で書かれるのは必然なのだし、駄作であればそれはしょせん「瑕」のひとつでしかない。好事家だけが発見できるような都合のよい《掘り出し物》がそうそうそこらに転がってるわけがないのだ。

しかし、こういう文を見せられた日には……。
二人が向かった先は地元で有名なスーパーに足を踏み入れた。
気がつくとそこは十字路の真ん中に二人は立ち止まっていた。
そこには目の前に九人の鬼達が翼を囲むようにして全ての鬼が地面に落ちた翼をゴーグル越しに見据えている。
「こころ世代のテンノーゲーム」のumeten氏は「ビジュアル表現の一種」「マンガのコマ割のひとつとしてカンタンに読める」というのだが、要するに作品中の現実とそれを表現する言葉の関係が、普通の「正しい」文章とはちょっと違っているということだろう。
potasiumch氏(神経科学者らしい)は「後置修飾が出来る言語」と較べているけど、そう言われてみれば英語っぽいような気もする。
いずれにせよ、この文体からなにかを読み取ろうという両氏の態度は、これを単なる間違いとか、文章が下手なだけだと切り捨てるよりはるかに生産的だろう。

赤川次郎の作品は読者に一切の想像力を使わせない驚くべき小説だ、それに注目しようとしない文学者はおかしい、と高橋源一郎が言ったことがある。山田悠介についても似たようなことが言えると思う。

*『リアル鬼ごっこ』のものすごさは、
と、それ以前のエントリーにまとめられている。用例採取ご苦労様です。

リアル鬼ごっこ
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山田 悠介
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タグ:小説 文体

2007年08月22日

もうひとつのうつ病

気まぐれ「うつ」病―誤解される非定型うつ病 (ちくま新書 668)
貝谷 久宣
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たまたま書店で見かけて買った。まだちゃんと読めていない。
しかし、気になることがあるので書く。

この本は「非定型うつ病」というものの解説書だ。
「非定型うつ病」とは、典型的な「うつ病」とはちがった特徴をもつうつ病のことであるらしい(著者の監修した解説ページを読んだほうがわかりやすいと思う)。

気になることというのは、しばしば「ニセうつ病」というものがあるとか、「うつ病と抑鬱は違う」とか強調している人(精神科医)がいることだ。
彼らにとって「非定型うつ病」というものはどう映っているのか。
そもそもそんなものは存在しない、と考えているのだろうか。

僕にとってこの本がわかりにくいのは、古典的なうつ病と「非定型うつ病」との比較が主になっていて、このような、「それは「うつ病」とは言わないんじゃないか」という疑問について、あまり踏み込んでいないからだ。

「うつ病」っていうのは、言ってみれば、道徳的に公認された病気だ。
うつになるような人は、まじめな、「良い人」が多い、とされてきた。
しかし、「非定型うつ病」はそうではないし、そのほかの精神疾患も同じだ。精神病は、昔から、それを「病気」と名づける精神科医からさえしばしば道徳的な悪だとされてきた。
「うつ病」は(少なくとも最近は)そのなかの例外だし、「心の風邪」とかいわれて、「精神障害」という重苦しさからも逃れてきた。
「非定型うつ病」はその聖域に、微妙な影を落とす存在なのだろうか。

たぶん書き直します
posted by 甲虫1 at 2007年08月22日 23:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 世の中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2007年08月15日

左翼・右翼・国家。

宮台真司氏と小林・萱野両氏との鼎談。無料放送なのでずっと観なければならないと思っていたのだが、やっと観れた。
宮台氏の「国家を否定する左翼」批判が主な内容( 宮台発言の校正&抜粋-宮台氏のブログMIYADAI.com Blogより)。 もちろん、
  1. はたして左翼は国家を否定しているのか(国家の否定が左翼の定義と言えるのか)
  2. そもそも左翼と右翼の定義とは何か
ということが問題になってくる。
たしかに安易な国家の否定は非常にマズイ。しかし、それははたして左翼だけのことだろうか。
僕がこの前の記事(これも萱野氏が参加したトークセッションのレポートの感想)で「わかっていない人」と言ったのは、かならずしも引用中に言われているような「ラディカルな立場」の人だけではない。小林よしのり氏のブレーンだったような元左翼の《保守》の人たちこそ、「国家を否定できていない」としてぬるい《左翼》たちを攻撃してきた(しかも対案を出さないまま)のだし、いろんな意味での「リベラル」たち(妥協的左翼から経済的放任主義者まで)も、国家の道徳的・経済的干渉(両者は同一視されることもしばしば)を否定的に見てきたのではないか。
宮台氏の主張にかならずしも同意できないのはそのへんだが、そもそもこの鼎談は、ネット右翼や安倍政権の周辺を《あの「小林よしのり」にすら否定される存在》としておとしめるための宮台氏のパフォーマンスだと思うので、深く追求してもしょうがない面もあると思う。


あと、もう一方の左翼・右翼の定義だけど、僕はやっぱり「右翼」はダメだ。宮台氏は「どんなに社会が良くなっても幸せになれない人が多勢〔ママ-引用者〕いるというのが右」「人が理不尽な存在であることを賞揚する主意主義者が右」という。僕は「社会」(システム)を変えようとするのが「左翼」で、「世界」つまり「現実」そのものを変えようとするのが「右翼」だと思う。もちろん現実(事実)は、変えられないからこそそう呼ばれるものなのであって、実際には「右翼」の人は現実をそうあらしめる「認識」や「主観」を変えようとするのだが……。

変えようとするのが自分の認識や主観であるのならまだいい。でも大抵はそうではない。「左翼は自分でやれないことをひとにやらせようとする」という人がいるが、そしてそれはたしかに嫌なことなのだが、それはあくまで敵対のロジックからそんなに離れていない。義務や道徳を持ち出しておどかすのには、まだ反発のしようがある。右翼というのはそういうものではなく、自分の肉体や人格的尊厳(アイデンティティー?)を持ち出して、お前はそれを破壊するのか、と迫るものだ。たしかにそれは「根源的」かもしれないが、相手の「同意」「同情」「承認」を盾に取るわけ? という疑念は残る。
つまり《左翼は一人でもできるが右翼はそうではない》ということがいえると思う。これは一般に言われること(左翼は群れたがる、とか)とはいっけん逆なんだけど、つまり左翼には他者がいないってことですね。というか、他者の「心」を動かすことに興味がない、他者を人間と思ってない、ということがある。これはヒドいことのように思われるかもしれないけど、左翼であることの「希望」っていうのは、実は主にここにあると思う。





★注(いろいろ問題のある文章だということはわかっていて、特に「右翼」云々のくだりについては、具体的な例示もないので、「そんなやつどこにいるんだ」といわれるかもしれないし、あと、僕が「左翼」の側に立ちたいと思っているのは単なる願望みたいなものであって、いままで具体的な運動とかに関わったことはないし、また単に思想的にも、客観的に見れば左翼でもなんでもないのかもしれない。でも、これはずっと考えてきたことではあるので、一度まとめてみることにした。)
posted by 甲虫1 at 2007年08月15日 08:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2007年08月04日

「国家を超える」?


  • 「同性婚や事実婚を制度的に求める人たちは結局国家というものを前提としてしまっている」「制度上の社会的なマイノリティとしてマジョリティに対抗しているように見えても国家の正統性を再生産してしまっている」という批判がラディカルな立場からなされる。
    • マイノリティの社会的承認が重要な政治的課題であるとして、国家からの承認が国家を前提としているという批判スタイルははたして可能なのか/妥当なのか。
      [中略-引用者(甲虫ブログ)]

    • 現実に公的であることの定義権を(ある程度)独占している国家をあたかも存在しないかのように脱構築を図るのは、むしろ国家の剥き出しの暴力装置としてのあり方を黙認してしまうことになるのでは。

Kawakita on the Web - 萱野稔人氏×北田暁大氏トークセッション「権力と正義」 参加
http://d.hatena.ne.jp/kwkt/20070727/p1

激しく同意。
これがわかっていない人が意外に多い――というか、わかっていればできないはずのことをやってしまっている人が多すぎると思う。
タグ:国家 権力 政治
posted by 甲虫1 at 2007年08月04日 23:03 | Comment(2) | TrackBack(1) | うわさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |
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