2006年12月30日

雷沼博士って知ってる?

あいかわらず自分の書くものは支離滅裂だな、と思う。
段落によって微妙に主張が変わっていたりするのだから。

まん延する「ニセ科学批判」」で言いたかったことを、一言で言い換えられることに、書き終わってから気づいた。

それは、
「《政治的に正しくない真理》は存在するか?」
ということだ。

両者はほとんど常にリンクしているように見える。
例外は存在するだろうか?

これは、呉智英を読んでいたころからの疑問だ。
彼は、自分はそんなものは見たことがない、という態度をとるだろう。
しかし一方で、もしそんな物があったらどうするのだ、と「進歩的知識人」たちを恫喝する(彼の書くものがくだらないのは、結局結論を他人に預けてしまっているからだ)。

幾人かのネット知識人たちはそれが「ある」と言いたげだ。呉氏の影響かどうかはわからない。

僕があの記事でとりあげた幾人かの信頼できるブロガーは、断固としてそういう主張に抵抗しようとしている人たちだと思う。




posted by 甲虫1 at 2006年12月30日 01:45 | Comment(0) | TrackBack(1) | 断片 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2006年12月29日

まん延する「ニセ科学批判」


菊池誠氏のNHK出演(テキスト起こしはうしとみしよぞ - 視点・論点「まん延するニセ科学」 。)を テンプレネタにしたもののひとつ(そのほかのバリエーションはこちらにまとめられている)。

違和感ありまくりで困る。でもそれは、これがテンプレネタだからではないと思う。
作者のApeman氏自身が言っているように、「疑似科学と偽史(ないし歴史修正主義)との類似性は表面的なものではなく、かなり本質的なもの」だ。しかしだからこそ、ほとんど「ニセ科学」を「ニセ歴史学」(歴史修正主義のこと)に入れ替えただけのようなこのネタが、「ニセ科学」を批判することの困難を浮き彫りにしているのだと思う。

元ネタの菊池氏は、ニセ科学の特徴を「断言」に見る。
科学的に誠実であれば、科学者は「歯切れの悪い答え」しか口にできない、ところが「ニセ科学」は、きわめて簡単にすべてを断言してしまう、云々。

Apeman氏も、それをほとんどそのまま踏襲する。「このように、「ニセ歴史学」は実に小気味よく、物事に白黒を付けてくれます」と。

でもそれはおかしい、というか、ある意味正反対なのではないかと僕は思う。
歴史修正主義、たとえば《南京大虐殺はまぼろしだ》という主張は、まさにこの《断言できない》という《学問的誠実さ》の裏をかくことで勢力を伸ばしてきたという側面があるからだ。

歴史的「事実」には、すべて証拠が残っているわけではない。それにそもそも一回しか起こらなかった出来事を問題にしているのだから、追試をして正しいかどうか確かめるというわけにはいかない。だから修正主義者は、普通に考えたら疑いようのない、しかし自分たちの政治的立場には都合のよくない歴史的対象に対して《知的な疑い》のまなざしを向けるそぶりをする。するといくらでも《証拠がない》《断言できない》ことがみつかる。
それらを示して彼らは《はっきりとした証拠が無いようなことをさも事実であるようにいうのは知的誠実さに欠けた態度だ。それは「学問」ではなくイデオロギーだ》と主張するのだ。

厄介なことに、彼らのこの作業は《「ニセ科学」批判》と形式的には同じなのだ。
われわれのもつ常識や確信には、しばしば合理的根拠はないわけで、それを《誠実に》疑い出したらきりがない。そこに恣意性が生まれる。《水伝》レベルのものならともかく、《トラウマ》や《人権》のようなものまで科学的でないという理由で批判されることがあるのだ。そういう言説は、それ自身がほとんど「ニセ科学」と化しているように僕には見える。まさにそれは「様々な問題に対して、曖昧さなく白黒はっきりつけるもの」という科学のイメージの濫用だからだ。科学と「ニセ科学」は比較的区別しやすいが、「ニセ科学」と、《「ニセ科学」批判》を区別するのは困難なのである。

Apeman氏を批判したいのではない。逆だ。Apeman氏が普段から実践している歴史修正主義批判は、《「ニセ科学」批判》の一部にある「ニセ科学」性をも問題にするような射程を持っているということなのだ。おなじテンプレを使ったなんばりょうすけ氏の児童小銃 - 視点・論点「まん延するニセメディアリテラシー」 は、むしろこの問題をクリアにみせてくれていると思う。

posted by 甲虫1 at 2006年12月29日 22:05 | Comment(2) | TrackBack(2) | うわさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2006年12月10日

「ワレワレオタ」

(そんな中には、ポストモダン・アポカリプス・アニメなんていう、正しすぎる形容もあったり/日本の「ワレワレオタ」からは絶対に出てこない文言)
伊藤剛のトカトントニズム - モーマスonエヴァンゲリオン
http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20061210/1165752752

マンガ評論家・伊藤剛氏のブログより。
「ワレワレオタ」ってなんだ? と思い検索してみると、哲板(2chの)の東浩紀スレが出てきた(「【動ポモ2】東浩紀スレッド69【さっさと出せ】」。すでにdat落ち。Googleのキャッシュ)。これが初出なのかどうかはわからない。あと「ワレワレ」という表記にはなんか元ネタがありそう。

こういう表現に込められた伊藤氏のいらだちはよくわかる。「オタク」たちは二重の意味でドメスティックすぎる――というかそういうオタクとオタク論者がけっこういる。オタクカルチャーはさまざまな他ジャンルに影響を受けたりシンクロしたりしているし、その中には海外のものも含まれるのだが、そういうあたりまえのことが時に無視されるのだ。

サブカルチャーのヤバさ(SEX・ドラッグ・反体制等)を指摘して、「ワレワレオタク」とは違うとする発言が、上でリンクした東スレではされているが、たしかにこれはその一つの典型だろう。

僕は前から思ってるんだけど、オタクカルチャーはそもそも、「危険」な側面を持つサブカルチャーの代替物(ロックに対するアイドル歌謡のような)という性質を初めから待っていた。
そんなオタク(オタクカルチャー)が逆に危険視(異端視)されるようになったのは、冷戦が終わってサブカルチャーの破壊力が失われ、大衆化した80年代末からのことだと思う。

どうもわれわれは、冷戦期とは違ったもう一つの「ねじれ現象」を生きているのかもしれない。

2006年12月01日

視覚−による−歴史?

 現に目に映る世界の存在をそのまま肯定してしまう《模写説》を取る経験主義者は、当然、現に目に映る政府の存在を国家として肯定する。したがって、もっとも単純な国家主義者となる。ライオンが小鹿を食べるのをみて、前者を百獣の王だと感じるような思考法が、これにあたる。強い者は勝者である、というわけだ。
An Excess of Repetition into the Future - カント読解……
http://d.hatena.ne.jp/vir_actuel/20061130/1164893329


こういう視覚的な比喩に反応してしまうのはなぜだろう?(『表層批評宣言』の影響か?)

いつもは難しすぎて読めないこのブログ(すいません、タイトルも読めません……)も、こういうのが出てくるとわかりやすい。
posted by 甲虫1 at 2006年12月01日 22:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | うわさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする | このエントリーを含むはてなブックマーク |
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。