ちょっといま考えていることの文脈をつなげるためにメモしておく。
このあいだ「
甲虫ブログ: 俺の無意味な生を愛せ、みたいなこと」で描いたような人たち(の発想)というのは、要するにネットでいうところの「非モテ」(あるいは「男性弱者」)というやつではないのか、というのに、書きおわったあとで気がついた。
で、そこで問題になるのは、彼らが主に男性だということ。
彼らがこだわる無意味な生――他者から意味づけられない生――というものは、そもそもモデルとして賃労働(によって得られるもの)を想定しているのだと思う。
これは、彼らが「働きたくない」と主張する場合でも同じだ。そのとき拒否される労働が家事や育児だったらどうか、というようなことは、微妙に忘れられているのではないか。労働の拒否というのは、おなかをすかせて泣いている赤ん坊をあえて放っておくようなことであるかもしれないのだが。(そのことに気づいて、突然それまでとは正反対の主張を始める人がときどきいる)。
勤めに出て稼いでくる、ということは、家に居るときは休みである、ということだ。しかし、そうでない人はたくさんいる。
主婦がその代表例であるために、これはフェミニストにとって中心的問題になっているわけだが、もちろんそれ以外にも休日とか非番とかいうことが意味のない職業は存在するし、女性が(男性がしてきたように)家事をだれかに押し付ける、ということだって可能である。
なので、この点に関してフェミニスト(およびそれを意識した女性)の意見は微妙なものになる。
これは表現規制問題(これを、もちろん僕は「無意味な生の肯定」を巡る問題の代表的なものだと思っている)について、一方でポルノの性差別性に怒りつつ、もう一方で表現や内心の自由(「オナニーする自由」とか)に対する抑圧に憤る、という分裂(これは一人の人が両方を主張する、という場合だけではなく、いわば「分業」がなされていることもあるが)は、おそらくこれに由来するのだろうと思う※。
※注 性差別に憤ることと、ポルノを楽しむ権利を認めることは矛盾しない、と言われるかもしれない――というか僕もそう言っていた。
それは確かにそうなのだ。
でも、何をしてもしなくても他者の評価にさらされてしまうという現在の女性のありかたと、「仕事」という壁でそれらから守られるという現在の男性のありかたがあるとして、前者の立場から後者を批判することと、女性が後者のありかたを獲得していくことという二つの方向性は、やはり両立は難しいのではないか。
もちろんこんなことはフェミニズムではとっくに議論されていることだとは思うが、すくなくとも何らかの「理論」だの「常識」だの「シンプルな立場」とやらでそれを簡単に解決できるかのように言うとしたら、それには警戒せざるをえないだろう。